ハリー・ポッターと死の秘宝を久しぶりに見て

※愛読者、または映画のファンの方は不快になると思うので読まないでください。

 映画シリーズは結局全て映画館で観ていて、リアルタイムでも思っていたのが、信頼できると思われた人が実は…という展開がテンドンなのかというくらい執拗に繰り返されたりとか、魔法学校のカリキュラムのハードさ加減がマッチポンプすぎるとか、ファンの人々はそういう一種独特の世界観に対して「そこがいいんじゃない」的にクセとして楽しんでいるのか、全然違和感を感じていないのか、その向き合い方を訝しんでしまうところがあったのですが。

 今回久しぶりにテレビで見ていたら、ゴブリンの銀行家に「(魔法使いは一般的に侮蔑の気持ちを持っているのに)お前はしもべの妖精や我々ゴブリンに対する姿勢が違うな」ということをわざわざ言わせておきながら、結局裏切るという展開になるじゃないですか。ああ、そういえばハリー・ポッターって全体としてそういうトーンの物語だったよな…それって何なんだろうな、と思い出したのですね。小説が話題になった頃に喧伝された「作者の困窮生活からの逆転劇」からの先入観も大きいと思うけれど、あまりにも殺伐とした人生観に、余程実生活でつらい目にあって猜疑心が染みついてしまったんだろうな、と思ってしまった。(でも鼻くそ味の何とか、みたいにチャイルディッシュな性向は本質的にあると感じる。)

 もう一つ、もうちょっと大きな影響としては、この小説が現在のYAジャンルの隆盛の礎になったところがあると思うのだけど、(あまりそのジャンルに親しんできたとはいえない立場であれですが)YAって、過去のファンタジーとかSFなどの遺産のいいところ、意地悪な言い方をすれば上澄みだけから構成されている印象があって、しかも感情面でも喜び哀しみ怒りみたいなエモーションに最短距離でアクセスしようとするから、善き人でも暗い澱のような感情と無縁ではないことや、(物語上の)悪人にもその人物なりの信念や愛情がある、といった振幅に乏しい気がするのですね。描写があってもすごくカキワリ的というか。物語がドライブしているように見えればそれで良しとする短絡さが、この作品以降一般化したような気がして、それは如何なものか、と当時も思ったのだったなと思い出したのでした。