MAD探偵 7人の容疑者(ジョニー・トー/ワイ・カーファイ)

 西九龍署のバンは、犯罪者の人格に成りきり、かつ被害者に同一化することで犯人を特定するという特異なアプローチで数々の難事件を解決してきた名刑事だった。しかしその奇矯な行動が原因で退職を余儀なくされる。それから5年、かつて一度だけ共同で事件に当たった若手刑事ホーが、彼の助けを求めて訪れる。それは拳銃の紛失を巡る刑事失踪というものだったのだが・・・
 『マッスルモンク』以来の同コンビによる怪作にして傑作!という話題のみ伝わってきていましたが、なるほどこれは凄かった・・・内容に触れますのでネタバレご容赦のほど。以下感想メモです。
・犯罪者の人格を憑依させる、というプロファイリングと呼ぶのも生ぬるい!アプローチで難事件解決、ときたら『刑事グラハム/凍りついた欲望』ですよね。
・インタビューによると、なんでも「ゴッホがもし名探偵だったら」というのが元々の発想だったそうで。すごい奇想。むしろMAD監督というか。ジョニー・トーのフィルモグラフィでやりすぎ感のある作品を再確認したら、やっぱりワイ・カーファイがかんでるものでした。『ロンゲスト・ナイト』をトー作品と勘違いしてたこともあったのだけど、実はカーファイテイストだったという。
・そう考えると、ややもするとトー監督が手癖の範疇で収めてしまいそうなところを、カーファイ脚本(監督)の暴力的なまでの想像力が突き抜けてくれる。あるいは、アイディア倒れになりかねないところをトー監督がその膂力によって「作品」として纏め上げてくれる。という絶妙のコンビなんだと思います。
・バンが幻視するのは「多重人格」と物語上呼ばれていますが、あれは所謂ビリー・ミリガン的な多重人格ではなくて、人が長じるにつれ社会と折り合いをつける上で身に付けざるを得ない、ペルソナ(のメタファー)なんだと思いました。後述のメモとも関連するのですが・・・
・バンは常に幻の妻を同行させていて、中盤に差し掛かるまで「もしかして亡くなったのでは?」と示唆されます。それは観客の視点を代行するホーによっても補強される。ところがある時、幻だったはずの妻の姿をホーが目にすることに。一瞬、ホーのバンへの信頼・共感の高まりがそうさせたのでは?と思わされるのですが、ここで実は元妻は刑事で、突飛過ぎるバンの行動に付き合いきれなくなって出て行ったことが明かされます。そしてこのシーンを境に、物語を構成する要素が次々と反転していくのですが…簡潔にして切れ味鋭いトー演出の真骨頂でした。
・妻メイのキャラクターは、一見、元夫バンに助言だけを求める利己的な女性として描かれているように見えますが、果たしてそうだろうか?バンが伴っている幻の妻は慈愛に満ち、夫のことを常に気にかけている女性として登場します。一方、生身の人間である妻は鬼のような形相(ペルソナ)で現れ、バンはそこにかつての愛しい妻の面影を見出すことができない。しかしこれは、バンが元妻に都合のよい側面しか求めてこなかった証左とはいえないでしょうか?果たしてメイはバンの奇矯さだけに愛想を尽かしたのでしょうか?
・クライマックスの鏡を使った殺陣が素晴らしい。スタイリッシュを標榜する監督にありがちな画にのみ淫する感じではなくて、エモーションの高まりに貢献しているし、何より映画のテーマを裏打ちしています。
・バンが警察を追われる原因となった、定年を迎えた上司へのある「プレゼント」。それは上司が大人にしては珍しい人格が一つしかない人物だったことを称えてだったのですが、これは映画の結末、ホーに訪れる「ある変化」と繋がっています。つまり円環構造。優れた物語の多くがそうであるように、この作品も主人公(ホー)がある出来事を通じて成長する過程を描いています。それは通過儀礼でもある訳ですが、成長するということは言い換えればイノセンスの喪失でもある。
 大人として生きていくには、場合によって「顔」を使い分けなければならない。そして困難な場面を重ねる度、それは数を増やすのかもしれない。バンが文字通り身を削ってまで上司を讃えたのは、それほどの役職、そして定年に至ってなお、たった一つの顔のみで生きていることに感動したからでしょう。
・シナリオはプロットの骨格を示す数枚に過ぎなくて、ほとんどアドリブだったそうです。香港映画ではよく聞く話ですが、複雑な設定を1時間30分のランタイムで過不足なく語りきる手際を見ると、とても信じられない。まさしく鬼才だと思います。
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