喋る馬(バーナード・マラマッド)

 マラマッドは新潮の短編集を高校か大学の頃に読んだきりでした(あとはアンソロジー収録作品を幾つか)。その時の印象は、編訳者の柴田元幸がいみじくも「貧乏と美が否応なしに合体させられている世界」とあとがきに書いているように、その叙情性が不思議と胸に迫るものでした。多感な時期で、そういう世界観が特に響きやすい年頃だったということもあるのでしょうけれど、僕の中でのニューヨークのイメージはマラマッド作品のような「下町で肩を寄せ合いつましく暮らすユダヤ人」というものと、いかにもニューヨーカー派な(その頃集中して読んでいた)アーウィン・ショーの「洗練されてきらびやかな都会生活」という両極端で刷り込まれたのでした。
 さて本短編集、実は結構既読作品が被っていまして。未読作品では表題作でもあるシュールでダークな寓話『喋る馬』も形容し難い味わいで(チャーリー・カウフマン的?そういえば彼もドイツ系ユダヤ人ですね)とても面白かったのですが、語りの力強さと結末のインパクトで『ドイツ難民』が一番印象深かった。
 世界が2度目の戦争に傾斜していく中、貧乏学生の「僕」は難民相手の英語教師で糊口をしのいでいた。中には映画スターや経済学者など本国では錚々たる経歴を誇る人々もいて、元ジャーナリストのオスカルもその一人だった。ユダヤ人に冷淡だった妻との別れ、ナチスからの迫害など心の傷の癒えない彼を励ますうち、彼らの間に友情が芽生え始める。そんな時、とある研究所から講演のオファーが舞い込んだ。ままならない発音に何度も挫折しそうになった二人は、ホイットマンの詩をきっかけに何とか講演原稿の完成にこぎ着けるのだが・・・
 この作品は、何というかある種の反則といわれかねない要素をはらんでいるように思います。それほど強烈でした。ごく個人的なシンクロニシティとして、ユダヤ人難民、第2次世界大戦、ナチスというバックグラウンドを持つこの物語を『イングロリアス・バスターズ』の直前に読んでいた、ということもあったのですが、そのせいか印象が渾然一体になってしまった感じ。
 ところで「極限状態を描いた物語」は娯楽として受け止める分には最高のテーマ(ネタ)ですよね。そして不謹慎を承知で書くと、究極の極限状況は戦争な訳で。『悪童日記』なんかを読んだときにも思ったけれど、ある程度リアルな(作家の)現実の体験を反映していたらなおいい。その一方で仮に日本の若手作家がそういう物語を書いたら、(純粋な評価を離れて)どこかで「頭だけで書いてもなあ」と反射的に貶す部分があるかもしれない。でも作品のテーマや評価は作者の出自によって担保されるものなのだろうか?というようなことを考えてしまいました。
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