南米ウルグアイの人里離れた場所オチョス・リオス。そこには自殺した作家グントの妻、愛人とその娘、そして作家の兄とその恋人がそれぞれの孤独を抱えて生きていた。時が止まったかのようなその場所に、ある日闖入者が現れる。彼はアメリカの大学院生で、グントの伝記を執筆するにあたり遺族の公認を得たいというのだが・・・
「不幸は長くつづかない。幸福が長くつづかないように−」という惹句が何だか不穏ですが、実際にはごく穏やかな、舞台を思わせる会話劇から構成される人間模様。とにかくダイアローグが秀逸で、これといってドラマティックな展開があるわけではないのに、とても引き込まれました。会話や些細な仕種の描写からキャラクターの個性が立ち上がる巧みさ。対話の過程で移ろう人間関係の力学など、プロットそのものに強力な推進力があるタイプの小説ではないのに、読ませます(特に主人公カップルのやりとりの場面が、いつも自ずとコメディタッチになるのが面白かった)。
さて、とても良かったという前提で、気になった点を。登場人物たちはみな、ある種アイデンティティを引き裂かれた存在として設定されています。グントの両親はナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人。妻のキャロラインはニューヨークで暮らしていたのが、妹との過去の経緯から家族から勘当されたも同然にウルグアイに移り住み、夫亡き後も自らを罰するように留まり続けている。グントの娘を産んだアーデンも元々はアメリカ在住で、母を自殺で亡くし、父とも建設的な関係を築けないままウルグアイに流れ着いた。グントの兄アダムはゲイで、その恋人ピートはタイで糊口をしのぐため男娼をしていたところをドイツ人と縁があり、やがてアダムについてウルグアイに渡ってきた。そして主人公オマーも、両親とともにイランから政変を機にカナダに移住し、現在はカンザスの大学で働いている。というように、作家の意図に対して、読む人によってはかなり設定が勝ったバックグラウンドだと受け止められるかもしれません。その点を飲み下せるかどうかが、この作品の印象を左右するような気がしました。
もうひとつ、舞台となるオチョス・リオスは消極的なユートピアであって、その風景描写を含めた世界観を楽しむのがこの小説の醍醐味でもあるのですが、作者はあくまでアメリカ人なので、ファンタジーとしてのウルグアイというか、やはりエキゾ趣味的な部分がなくはないのですね。
読み終わった後に、この小説がジェイムズ・アイヴォリーによって07年に映画化されていると知って、ものすごく納得したのがまさにその点でした。J・アイヴォリーも自分の中の「理想化された英国」をひたすら追い求めてきたアメリカ人だから、読むなりグッときたというのは想像に難くない。アダムに自身を投影していたのかもしれないし・・・でもキャスティング(アーデン:シャルロット・ゲンズブール、アダム:A・ホプキンス、ピート:真田広之)は読んだ後だとピンとこなかったなあ。
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