夏の葬列(山川方夫)

 一般的には表題作「夏の葬列」が教科書に採用されていて、そこで初めて出会ったという方が多いようですね。ショートショートの作家としてだったのか、あるいは一時期小林信彦の著作を集中して読んでいたのでその文脈でだったのか、名前だけは目にしたことがあったのですが、今回初めて読みました。

 おそらく山川の作品世界の導入として、というコンセプトで編まれているためか、ショートショート7つと中編2つという変則的な構成になっています(集英社文庫版)。これに解説と鑑賞と年譜と語注まで付くという懇切丁寧な編集。読むうえですごく理解の手助けになりました。(語注は中学生向けなのかなという感じでしたが、小説そのものはどう考えても高校以上の内容ですよね…)

 解説にも明らかですが、正直、文学史に名を遺すといった「一流」作家ではないという印象。むしろ江藤淳浅利慶太たちを発掘した編集者としての功績が大きかったようです。もちろん大作家のものでなければ現在において過去の作品を読むに値しないということにはならない訳で、以下、読んだ感想等を若干書きたいと思います。

・夏の葬列ほか短編:「夏の葬列」はごく幼い頃に犯した過ちが大人になって改めて襲ってくるという因果の話になっているのですが、発端となっている事故が戦争によるものであるため「戦争の悲惨さ」をテーマとした教材として採用されたようです。しかし実際は小説上、事故は代替可能なもので、「仮に幼い時分の行為であっても、その報いはなかなか逃れられるものではない」という恐怖譚の切れ味が先ずあるのであって、書かれた時の時代性で採用された要素にすぎないという印象です。(だから本来の趣旨からすれば教科書的にも適当ではないと思います。)

 そのような意味で、他の収録作である短編も結末のツイストから逆算されていることが読者にとって明らかであるにも関わらず、文学的な余韻や深みもなくしたくないという煮え切らないスタンスである故に、結果どっちつかずな成果になってしまっているという印象でした。(ただ「一人ぼっちのプレゼント」は昭和初期に置き換えたアーウィン・ショーっぽい感じもあって好きでした。)

・「煙突」「海岸公園」(中編):うって変わって完全に昭和の所謂「私小説」。三島由紀夫とか庄野潤三といった作家(「第三の新人」前後かな)のある作品群とも通底するトーンですが、ある生活上の解決すべき問題に直面して、そもそも自分のような卑怯者が生きている価値はあるのかと自問自答するような内容ですね。私も若い頃はこのジャンルが好きでよく読んでいたなと懐かしくなりました。

 しかし、こんな赤裸々に内情を公にされると家族はたまったものではないと思うのですが、どのように対処していたのでしょうか。この作品に限らず、私小説ってなんだか包み隠さず吐き出せば吐き出すほどよい、というような一種マゾヒスティックでエクストリームなチャレンジに見えて、目的と手段を取り違えていないか心配になります。ともあれ、戦争を直接経験していた人たちの感じていた「死と隣り合わせ」の感覚は、ちょっと想像できないような精神的圧迫であったのであろうということと、それがいざなくなったときの、単なる解放というのでもない、精神の平常モードってどんなだったっけ?という茫漠とした不安感は現在を生きる私たちにはなかなか理解できないものなのかもしれません。

 実はそのような意味も踏まえて、中編を読んで上記の短編の見方が少し変わりました。作者は一見とても恵まれた生活であるように思われたものの、かなり家族環境に困難を抱えており、常に血族という因果と地獄を意識しないではいられなかったようです。それが短編作品にも影を落としていて、ショートショートという本来ならカラッと構造だけで読ませるべきジャンルにおいてすら、翳りをにじませずにいられなかったということなのかもしれません。その生涯からいっても平和な日常にふとしたことから兆す不穏さに敏感な作家だったのでしょう。

 全体としては、作品の質云々以上にビジュアル的に鮮烈な描写に長けていて、物語のことを忘れても場面だけは思い出しそうな気がします。そこが現在(2022年)も改めて作品集が編まれるような熱心な読者を得ている理由なのだと思います。

☆☆☆1/2