太陽の坐る場所(辻村深月)

 例えばオセロで、終盤まで黒優勢だったのに、結果、盤面を全て白が埋め尽くして勝利したゲームがあったら、「こんな勝ち方があるのか?!」となるんじゃないだろうか。
 舞台は年恒例となっている高校の同窓会、最近の話題は一流の女優として活躍している元クラスメートのキョウコだった。ふとした話題の流れから、ずっと欠席を続けている彼女を何とか呼び出すことが提案される。しかしそれは忌まわしい過去として封印したかった彼らの「高校時代の思い出」を抉じ開けるきっかけだった・・・
 形式は連作短編。それぞれの登場人物が主観視点で自らの来歴を語るというもの。あえて思うところを口にしない「大人の慎み」を守ることでギリギリの均衡を保っていた彼らの世界は、「キョウコを呼び出す」という試みによって自壊していきます。閉じて充足していたはずの世界が崩れ落ちることで、ある者は逆に救われ、ある者は自らの卑小さから目を逸らすことができなくなる。
 作者が巧みかつ残酷なのは、登場人物同士の疑心暗鬼の原因となっている「決定的な出来事」を、しかるべき理由によって互いに知り得ない三すくみのような設定にしているところ。リレーのように話者が変わることで、先立つ物語の背景が更新される手つきが実に鮮やかでした。
 話は少しずれますが、奥田英朗の作品が同じように人生のごく個人的な危機を扱っていても、(精神科医伊良部のシリーズこそポップな意匠をまとっていたものの)実はドメスティックな中間小説の系譜に直結していることと比較すると、登場人物に逃げ場を与えない徹底したニヒリズムに世代の違いを感じました。(もちろん作家の資質によるところも大きいと思いますが。)
 ところが、その不在によって突き動かされていた物語は終章直前、「女王」の顕現によって様相を変えます。人間の醜さを極端に描くのも、叙述的レッドヘリングとしてあえて読者の感情を揺さぶるための手段だったのかと思わされるほど。正直、終章は広げた風呂敷を律儀かつ几帳面にたたんでいくための展開ですが、物語を完璧にコントロールするその美しさの一端としてむしろ評価したいと思いました。
☆☆☆☆☆