ピアノ・レッスン(ジェーン・カンピオン)

 (好きな方は読まれないでください。)主人公がすごくシガニー・ウィーバーぽい撮られ方してるなと思いながら見ていたら、当初監督は本当に彼女を想定していたそうですね。あと、公開当時から、言葉を話すことができないのはてっきり娘の方だとなぜか思い込んでいた…(アンナ・パキンちゃんはこれとXメンの子、というイメージだな。)

 ところで、もっと淡色な作品を想像していたのだけど、意外と最初から「決めにくる」つくりで、タイトルクレジットの緑色の文字と配置だったり、鳴らしまくりのマイケル・ナイマンの劇伴だったり。ちょっと昔風の表現だと「お、おう…」と思わずなってしまう感じ。まあこれが90年代のミニシアター系らしい雰囲気だよな、と思いました。時代の気分ですね。

 冒頭あたり、海岸で娘のフローラがタツノオトシゴを貝殻で描いているシーン、主人公とフローラが歩き出すと、砂浜には2人の足跡が点々と残され、すこし遅れてついて行くベインズの足跡がそこに合流する。これからの顛末を象徴するように…という場面があったけれど、あれだけ大掛かりなタツノオトシゴの絵なのに、周りにまったく足跡がないのは嘘くさいなあと思ってしまいました。あと村人が宗教劇を演じる際、腕を切り落とす影絵がショッキングに挿入されるけど、ここ伏線なので覚えておいて!感が強すぎる。(そしてまんまと回収される。)ついでにいうと、マオリ族の人たちがアクセントとして便利に使われている印象もあって、今の感覚でいうとちょっとなあ…となりました。

 いろいろ文句を書いてしまったけれど、暴走する愛、突然の暴力、エキゾチックなシチュエーション、みたいなのは、90年代の気分だったと思います。なんだかわかったようなわからないような雰囲気。率直に言って、本来の夫はもっと主人公に最初から寄り添うべきだったとは思うけれど、不憫でしたよね。まあそうじゃないと映画にならない訳ですが…

☆☆☆

※すごく無粋だけど、一応書いておくと、ベインズは最初からピアノが主人公にとってかけがえのない存在であることを見抜いていて、それが理解できないスチュアートとの違いがのちのち響いてくるっていうことなんですよね。