ディスカスさんの計らいで図らずもシン・ハギュン2本立てになりました。ところで英語タイトルは「Thirst」。その昔館ひろしが「サースティ」って格好よく言うポカリスエットのCMがあって、なんとなくそのせいで自分の中では爽やかな方に分類されている言葉だったので、エロスとタナトスのメタファーとされるヴァンパイアの肉欲的な「渇き」とはなんかイメージが一致しないなあと、一瞬思ったのだけど、マキャモンの吸血鬼もの小説で「They thirst」というのがあったのでやはり間違いではないのだった(当たり前ですが)。
すみません、今のは完全なる余談です。さてこの映画ですが、僕には「思いやることや援助するということの困難さ、危うさ」を描いた作品だと思われました。(以下、内容に触れます。)
孤児院で育ち、今は病院で働く神父となった生真面目なサンヒョン。彼は人を救うことへの己の無力感から、究極の献身として致命的な死亡率で知られるウィルスの実験台となることを志願し、やはり死亡してしまう。ところが彼は、そこから「復活」を遂げる。奇跡の生還を果たしたサンヒョンには、その奇跡にあやかろうという人々が集まってくる。そんな人々の中の一人であったガンウの親子は、神父がかつての遊び友達であったことに気付き、マージャンの集いに招く。「遊んであげた」り「ラーメンを振舞ってあげた」ことを恩着せがましく言い立てるガンウ親子。そんな彼らの俗悪さに辟易しながらも、(孤児として引き取った娘で、今はガンウの妻となっている)テジュの幸薄げな儚いたたずまいに魅せられて、サンヒョンは彼らの招きに応じるのだった・・・
・冒頭、男女関係のもつれについて告解に訪れた女性に対して「男のことは忘れなさい」という主人公でしたが、相手からは「男のことは放っておいて」とにべもなく返されます。これは一見クスリとさせるささやかなエピソードなのですが、物語が進むにつれて、実は基調をなすテーマと響きあっていることが分かってきます。
・曲折あって、テジュに手をかけたサンヒョンは、結局ヴァンパイアの血を与えることで復活させることを選択する。人を超えた力を手に入れて思いのままに振舞うテジュ。「慎ましく暮らせばそれなりに(二人だけで)生きていけるはずなのに、どうしてそれが理解できないのか」と焦燥に駆られるサンヒョン。しかしその時彼は、自分が嫌悪していたガンウ親子と同じ轍を踏んでいることに気付いていただろうか?
・助言や援助というのは、ともすれば欺瞞や倣岸に陥りかねない危うさと隣り合わせである。彼女を自由にしたいと願っていたサンヒョンですが「しかし自分のコントロールの及ぶ範囲において」という自らの傲慢さには疎かったように思います。
・ところで、吸血鬼化したテジュは破壊衝動の赴くまま行動しているというよりは、(異常な環境で育てられていたのは自明なのに)自分を助けてくれなかった世間の事なかれ主義の犠牲者として、「世界」に対して復讐していたのだと思う。だから活き活きしているというよりは、むしろ痛々しさが勝ってくる。マージャンの面子が皆殺しにされるというのも、彼等が彼女にとっての憎むべき世間の「顔」を代表していたからではないか。
・けれどもサンヒョンの愛の深さは理解していた。だからこそ最後のシーンには胸を打たれます。
・『ニア・ダーク』を裏返したような物語。それとあわせて『青春の殺人者』も連想しました。もっと言えば、宗教(キリスト教)における赦しとは、そしてそれは可能なのか?という部分で『シークレット・サンシャイン』にも接近していたように思います。
☆☆☆1/2(とはいえ、些か冗長な印象が拭えなかったので・・・)