スリー・ビルボード(マーティン・マクドナー)

 『ヒットマンズ・レクイエム』を観て、オフビートという言葉でも上手くいえない変な映画を撮る人だなと思ったのだけど。今作はむしろ舞台でも成立する話だな、というのが第一印象で、事後に実は劇作家として既に名を成した人だったのだと知って、さもありなんと思ったことでした。

 もちろんこの映画は、映画ならではの表現としか言いようがない巧みな演出と描写があって、だからこそアカデミー賞でも話題の中心になった訳ですが。舞台的であると感じた理由は、むしろ物語の構造というか人間関係の抜き差しならなさに眼目が置かれている点で、考え抜かれた人物配置と展開が、むしろその精緻さ故に作り手の存在が前景化するというか。役者陣の見事さのおかげで、ためにする机上の話だな、とまでは思わないのだけど、観客の気持ちに揺さぶりをかけることに注力されている感じが、演劇であれば気にならなかったのではないか、という気持ちになりました。

☆☆☆

パシフィック・リム: アップライジング(スティーヴン・S・デナイト)

 映画としての精度でいえば前作なんだろうけれど(そして実はあまりピンとこなかったのだけど)、子どもが独力でロボット作ってたり、その上いきなりスカウトされたり、ふらふらしてた主人公がいきなり教官になったり、という無茶にもほどがある物語が逆に「巨大ロボットもの」って本来こうだよね、だって子ども向けなんだもの、という潔さを感じさせて好きだった。

 そういえば、最近は娯楽超大作といえば中国資本が欠かせない訳ですが、序盤から中国をディスるような展開があって、人ごとながら大丈夫かしら…と心配しながら観ていたのだけど、最後はきっちり花を持たせる作りになっていて、そうだよねそりゃそうだよね、と思ったことでした。

☆☆☆

スピード・レーサー(ウォシャウスキー姉妹)

 もっと箸にも棒にもかからない映画かと思っていたら、割合面白かった。展開や理屈の飛躍が過ぎるけど。

 アニメでも映画でも、騒がしいガキと動物は苦手なんですが、この映画に関してもやっぱり好きではなかった。けれども、監督たちの「そこは譲れない」という透徹した意思を感じて、飲み込まざるを得なかったな。

☆☆☆

ペンタゴン・ペーパーズ(スティーブン・スピルバーグ)

 政治的なイシューって、最終的には決定権のある個人(政府報道双方含む社交界メンバー=現代の貴族階級)の感覚的、感触的な部分で決まることが顕わになっていて、そこが面白かった。だからこそインテリジェンス活動の介入する余地がある、ということでもあるけど。

 ただ映画作品として見たら、この後『大統領の陰謀』があるんだな、という補助線なしでは物足りなさも感じたのが正直なところでした。

☆☆☆

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(村上春樹)

 『ねじまき鳥』以前と以降が僕の中の村上春樹の区分なんだけど、近年の作品では一番好きだった。この作品自体の幻想的要素は控えめだけど、初期の感触に近いというか。普遍的な青春とその喪失の物語ですね。(エピソードとしては極端だけど)青春時代においてはその友情が紛れもなく尊い結びつきであったとしても、いつかそれぞれの道をゆくことになる、というのは人生の真理であって。

 ところで、村上作品は、ごく初期に「時代に密接すぎる固有名詞は安っぽくなるからやめた方が」みたいな批判があったと聞いて、読んでいてそんな違和感は感じないけどな…と思ったものだけど、今回スターウォーズやダイハードと出てきたら、ムム、となったのでリアルタイムじゃないと分からないこともあるのだな。結局、60年代以前の文化がむしろ普遍的なものとして感じられるのは、自分にとっては、もはや伝説や歴史に属する世界だからなんでしょう。

☆☆☆☆

※余談ですが、主要登場人物のひとり、アカが披露するパンチラインが完全に『ファイトクラブ』なのは、どう受け止めたらよいのか?本人が嘯くようにあちこちからのぱくりということを裏書きしているってことなんだろうか。

ボヘミアン・ラプソディ(ブライアン・シンガー)

 久しぶりにこんなに入っているのを見たな、というくらい映画館がいっぱいだった。正直、物語そのものはあまり葛藤みたいなものがなくて、割とあっさり風味だったけれど、ヒットしているのはそれ故かもしれないと感じました。バンドメンバー優しすぎるだろ!

 監督と一応クレジットされているブライアン・シンガーは、最終的には放り出してしまったらしいけれど、「ありのままの自分を受け入れてほしい」と希う青年、ということでは本当に一貫してるなと感心。実際、ライブシーンは噂通り圧巻だったけれど、自分が心を打たれたのは「俺はなりたい自分になったんだ」と心情を吐露するその直前のシーンでした。映画の成功の何割かは、主演のラミ・マレックのイノセントな瞳の演技に拠るものだと思います。

 役者陣が素晴らしかった。特に、ライブエイドの場面でブライアン・メイ(グウィリム・リー)が演者側であるにも関わらず、「音楽の恩寵」に打たれたかのように「これを演奏しているのは俺たちなんだぜ?!」という表情を浮かべるシーンが印象的でした。

☆☆☆1/2

 

 

 

ハリー・ポッターと死の秘宝を久しぶりに見て

※愛読者、または映画のファンの方は不快になると思うので読まないでください。

 映画シリーズは結局全て映画館で観ていて、リアルタイムでも思っていたのが、信頼できると思われた人が実は…という展開がテンドンなのかというくらい執拗に繰り返されたりとか、魔法学校のカリキュラムのハードさ加減がマッチポンプすぎるとか、ファンの人々はそういう一種独特の世界観に対して「そこがいいんじゃない」的にクセとして楽しんでいるのか、全然違和感を感じていないのか、その向き合い方を訝しんでしまうところがあったのですが。

 今回久しぶりにテレビで見ていたら、ゴブリンの銀行家に「(魔法使いは一般的に侮蔑の気持ちを持っているのに)お前はしもべの妖精や我々ゴブリンに対する姿勢が違うな」ということをわざわざ言わせておきながら、結局裏切るという展開になるじゃないですか。ああ、そういえばハリー・ポッターって全体としてそういうトーンの物語だったよな…それって何なんだろうな、と思い出したのですね。小説が話題になった頃に喧伝された「作者の困窮生活からの逆転劇」からの先入観も大きいと思うけれど、あまりにも殺伐とした人生観に、余程実生活でつらい目にあって猜疑心が染みついてしまったんだろうな、と思ってしまった。(でも鼻くそ味の何とか、みたいにチャイルディッシュな性向は本質的にあると感じる。)

 もう一つ、もうちょっと大きな影響としては、この小説が現在のYAジャンルの隆盛の礎になったところがあると思うのだけど、(あまりそのジャンルに親しんできたとはいえない立場であれですが)YAって、過去のファンタジーとかSFなどの遺産のいいところ、意地悪な言い方をすれば上澄みだけから構成されている印象があって、しかも感情面でも喜び哀しみ怒りみたいなエモーションに最短距離でアクセスしようとするから、善き人でも暗い澱のような感情と無縁ではないことや、(物語上の)悪人にもその人物なりの信念や愛情がある、といった振幅に乏しい気がするのですね。描写があってもすごくカキワリ的というか。物語がドライブしているように見えればそれで良しとする短絡さが、この作品以降一般化したような気がして、それは如何なものか、と当時も思ったのだったなと思い出したのでした。