人生の小休止としてアンティーク屋「フラココ屋」の住み込み店員として働き始めた主人公。このお店の周辺には大家の孫娘の朝子さんと夕子ちゃん、初代店員でよろずイラストレーターの瑞枝さん、店長の元カノ?でフランス語講師のフランソワーズなど、ちょっと変わった面々。そして主人公の緊張感のない佇まいに惹かれるように、次第にゆるやかな繋がりが生まれてきます。やがてそれも変化の時を迎えて・・・
<結末にすこし触れています>今回読んでいるときに感じたのは、(ゲーム好きならご存知のとおり)作者はブルボン小林としてコラムニストの顔もあるのだけど、そのコラムと小説の中間くらいの線を狙っているのかなということでした(この小説自体はもちろんフィクションだけど)。そういう印象を受けるのは、所謂「あるあるネタ」的な要素を多く織り交ぜているからということもある。もちろん、例えば『パラレル』に「弟子をとりたい。名前も決まっている」というくだりがあったように、以前からそれは長嶋作品の武器だったのだけど、戦略的にそのボリュームを増やしていたからでした。夕子ちゃんというコスプレ好きの女子高生を『よつばと』のよつばのようなトリックスターとして設定しているのもその表れだと感じました。
コラムと小説の中間というと語弊がありそうなので、アンチクライマックス志向の徹底と言い換えた方がいいのかもしれません。ただそれが物語としての求心力の拡散につながっているようで、小説として上手くいっているのか疑問に感じられたのです。(以前の作品についての感想では「ここぞというところで決めにくるあざとさが好きでない」などと散々書いていたので、矛盾するようだけれど)。大きな事件が起こらないなりに小説らしいドラマが中心にある、という意味ではこれまでは基本に忠実な小説作法に則って書かれていたことが分かります。
もちろん長嶋作品らしさも随所にあって、「女の子はかわいければ、オタクでも恋愛する」というように、「かわいければ」がなくても通じるところにそういう残酷な部分をそっと忍ばせてみたり、どこまでもひょうひょうとしているかに見えた瑞枝さんに「子供をつくってみないか」と発言させる生々しさであったり。 やはり一筋縄ではいかない。
いろいろ書きましたが、全体の構成はともかく、最後に誰にもはっきりと告げないまま住居であり仕事場であるフラココ屋を出て行くことを決める主人公の描写に訳もなく泣かされました。いや本当は訳はあって、それまでの無意味にすら見える些細な描写がボディブローのように効いていたんですね。個人的には、例えば大学の卒業式みたいに、何となくまたいつか会えると思ってたらそれっきり二度と会えなかったりするような、メリハリのない、ドラマに欠ける別れの切なさが最近では寧ろ琴線に触れるようになっていて。この小説はコミュニティの暖かさと同じくらい人生のよるべなさについて描いていたような。そういう諦念みたいなものが作者の物語には通底している気がします。
☆☆☆1/2(ボーナストラックはありだと思う。)