歌おう、感電するほどの喜びを!(レイ・ブラッドベリ)

 誰が歌っても文句なしの名曲というものがあって、それは「スタンダード・ナンバー」といった言い方で評される。その一方で「エバーグリーンな」ものであっても、オリジナルの歌手でなければ本来の輝きを放ち得ない曲というものもある。例えば井上陽水の曲、あるいは山下達郎。 これはどちらが勝っているということではなくて、後者はそもそも歌手の声質等と一体になって成り立っている作品であるからということに過ぎない。

 これを文学作品について置き換えて考えてみたのだけど、どこの国の言葉に訳されても読者が変わらぬ感動を覚える作品と、書かれた国の言語でないと本当には楽しめないタイプの物語、ということになるのではないだろうか。これも先の命題と同様、どちらが勝っているかということをいいたい訳ではない。(ただ村上春樹の作品のように語り口がシンプルで、かつ国を問わない根本的な問題がテーマのものの方が言語を超えて通じやすい=訳されやすいという傾向はあると思う。)

 ということをゴニョゴニョ考えてたのは、母国の批評においてもその「語り口」に言及されることが多い(らしい)SF作家の筆頭であるシオドア・スタージョンレイ・ブラッドベリの作品を立て続けに読んだから。ごめんなさい「読んだから」というのはちょっと見栄が入っていて、スタージョン「人間以上」はまたしても読み通すことができなかったことを告白します。

 今まで何度かスタージョン作品にチャレンジしてきたけれど、短編の幾つかを読んだだけでどうしても長編は読了することができない。自分が呼吸していることを意識すると、とたんに息苦しくなるように、「語り」に意識を取られて内容が頭に入ってこないから。翻訳者との相性かとも考えたが、どの本でも駄目だった。僕にとってはそれだけ特異な読書体験なのである。逆に、だから根強いスタージョンのファンがいるというのもよく分かる話で、こういうスタイルは唯一無二だからだろう。

 さて、この本は大学以来の再読になります。正直なところ「10月はたそがれの国」や「火星年代記」ほどメジャーではないのですが。けれどもブラッドベリ作品に関してよく語られるように、「人生の素晴らしさ」や「子供の時の瑞々しい気持ちを失わないことの大切さ」といったテーマはここでも健在です。しかしさらに重要なのは、「人生の残酷さ」「年月の容赦なさ」についても余すところなく描かれているというところ。それが説教くさくならずに詩的な筆致で語られます。

 スタージョン作品は読み通すことすら覚束ないけど、ブラッドベリについてはオリジナルの独特のトーンすら分かったような気にさせられる。実際のところどの程度味わうことができているのだろうか、ということなどをつらつら考えながらの読書ではありました。

☆☆☆1/2