ハマースミスのうじ虫(ウィリアム・モール)

 ワイン商キャソンは人間観察が趣味という些か変わった人物。彼は同じクラブの会員である銀行重役の只ならぬ振る舞いから、彼を恐喝した狡猾な犯罪者の存在を知る。義憤から犯人を追い詰める決意を固めたキャソンであったが、手がかりは余りに茫漠としていた・・・
 復刊された時に評判になっていたので気になっていたのですが、確かにこれはミステリ云々といったジャンルを超えた傑作。ただ要所要所で定型を脱臼するようなストーリーで、それがこの作品を独自のものにしています。以下内容に触れる感想を。
 要はコロンボみたいな倒叙形式のミステリなのですが、犯人の独白が始まるのが随分巻が進んでからという変則形式。また、小説の彩りという本来の目的を超えて、ワインや家具への薀蓄が豊穣というより過剰。(あまりにボリュームがあるので007的なディテール小説かと最初思ったほど。実はその直感がそれほど的外れではないことが後で分かるのですが・・・)
 こういった犯人と探偵役の知恵比べの物語では、「立場が違えばあちら側だったかもしれない」という探偵の異常性が匂わされたりするものですが、その点が徹底している。動機はある種歪んだ正義感で、最後のあたりでは義侠心というのはただの大義名分だったのではないかと感じさせるほど。主人公の友人である警部の妻からその疑問が発されますが、対する夫の「彼は結局人間が好きなんだよ」という言葉も空々しく響きます。
 また物語自体の展開も対決する二人の手に汗握る駆け引き・・・とはならず、周到な計画によって犯人を真綿で首を絞めるように追い詰めていく過程はワンサイドゲームの様相を呈します。しかもミステリによくあるような思考ゲーム的な雰囲気からは随分離れて、狩人であるはずの主人公もその過程で消耗し、自身の暗黒の淵を覗くことになるのです。その一方で、犯人は卑小で俗悪な人間ですが、優秀なミステリが必ずそうであるように、いつしか読者はシンパシーを覚えずにいられません。
 さて、こんな独特なテイストの小説を書いた作家とはいったい・・・となりますが、これはまさに解説を含めての高評価といいたいところ。実は彼は戦争(WWⅡ)前夜の大学時代からMI5に従事し、共産主義者反戦論者といった反政府的人間を狩り出す立場にあったのだとか。その中では同級生を売ることも・・・ここに至ってなるほどと得心しました。解説者は「英国らしいフェアプレイ精神とヒューマニズム」とフォローしていますが、実際には作者自身が主人公キャソンを英雄的人物としては造型していない風に見て取れます。つまり、国家のためという大義名分だけを頼りに「汚れ仕事」に携わってきた自身のある種の非道さを、この作品を書くことで禊としたい、という「憑き物落とし」としての行為だったのではないかと想像されるのです。
 物語最後の憔悴するキャソンの姿は、最近観たこともあって、終わりのない報復合戦に心身を消耗した「ミュンヘン」の主人公と二重写しになりました。
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