僕は『最後のジェダイ』は(真にエポックメイキングだった最初の三作の意義を抜きにすれば)スター・ウォーズ最高の一作だと思っていて、何周年とか新シリーズにことよせて、みたいなこととは全く関係なく、意見表明というか単純に感想として書いてみんとてするなりという文章です。
ひとつには、「最後のジェダイ」絶対否定の保守的なファンが、僕の印象では一連の「マンダロリアン」シリーズには肯定的であるように思えて、しかし実際に見てみたら旧シリーズのディテールに淫するようなつくりだったから(もちろん面白いところもあったけれど)、やっぱり色々いっても同じことの繰り返しを良しとしているんだなと感じたからです。
ところで、「最後のジェダイ」について、あえていかがなものかと考えている要素を最初に書いておけば、ディズニー諸作に見られるマーケティングとしての「多様性」アピール※みたいな部分と、尺を稼ぐためとしか思えないカント・バイトのくだりの冗長さですね。
結局マーク・ハミルが自身の役柄について本当はどのように感じているのかは分かりませんが、いみじくも松尾スズキがコラムで触れていたように、役者人生にとって一種の呪いみたいになってしまった役柄に対して、あのように見事な花道を飾ってもらえたのはやはり役者冥利に尽きるのではないでしょうか。
さて本題です。振りかえってみれば、いわゆるプリクエル3部作に対する失望があります。最終的にアナキンがダース・ベイダーに堕ちてしまうのは避けられない既定の設定であって、純朴な辺境の青年がいかにして変心するのかを説得力を持って描けるかどうかにこの3作の成否がかかっていた訳です。個人的な感想としてはまあぼちぼちというところ。しかし決定的に残念だったのは、「精錬の騎士たちであり、なんとなれば銀河共和国元老院にも物申す」というイメージだったジェダイ評議会の面々が言い訳がましい法執行機関に過ぎなかったところでした。
加えて、最初は全く乗り気でなかったアナキンの処遇をクワイに免じて曲がりなりにもジェダイとして承認したならば、「有能で使い勝手のいいアサシン」として使うだけでなく、人の道、騎士の道を身に付けられるようにもっと愛情をもって細やかに面倒をみて、パルパティーンごときに付け入られる隙を与えるべきではなかった、と思いました。
あと、元老院がパルパティーンに乗っ取られる経緯も、あまりに図式的かつ杜撰な成り行きだから、「ぼくがかんがえた腐敗した政治と権謀術数」みたいに見えて、ああルーカスの演出の限界が哀しいくらい露呈してしまったな…せっかくならもっと見ごたえのある政治劇を展開してくれないと、これではアナキンが浮かばれないよ…と思ったものでした。(しかしながら、現実世界がありえないくらい杜撰な有様をその後見せ始めたから、的外れな怒りかもしれないけれど、プリクエルが余計嫌いになったということもありました。)
ここで「最後のジェダイ」の話に戻ってくるんですが、ルークのところにヨーダが現れて、自分たちがしがみついていたジェダイの道は間違っていた、形式でなく己を信じよというのがその神髄だった(大意)といって、経典を燃やしてしまいますよね。プリクエルの体たらくに歯噛みしていた僕にとっては、あの場面が痛快だった。
これに加えて、実はルークが直接指導していた弟子というのはカイロ・レンことベン・ソロだったのですが、おそらく父のおぞましい血脈を過剰に恐れて、経典に則った四角四面の教義に終始することで、伯父として愛していることや信じていることを十分に伝えられていなかったことに、人生の最後に至って今更ながら気づくんですよね。ここも涙なしでは観られない名場面でした。(というか、スター・ウォーズシリーズにおいては英雄譚の必置要素を図式的に分かりやすくなぞることが良くも悪くも定番だったけれど、ここは初めてその枠組みを突破してドラマを語ることができた瞬間だったのではないでしょうか。)
いかがでしょうか。少なくとも僕はそういう部分がとりわけ好きでした。
※それ自体はいいことだと率直に思うけれど、全方位的に満点出そうということ自体に終始している気がして、それが観客にばれている時点でいかがなものかと感じてしまいます。