SSSS.DYNAZENON(雨宮哲)

 「僕(私)はここにいていいんだ!」紆余曲折あったけど、よくここまでたどり着いたね。おめでとう!という作品は、視聴者の背中を押してくれるテーマとしていつの時代も求められているということなんでしょう。(エヴァの画期性というのはそういうジャンルの掘り起こしに成功したということなんだと思います。)しかしながら、いつまでもそれでいいのか?とくに前作でそのテーマは一応やり切ったのだから、今度は物語そのもののダイナミズムで勝負してほしかった(全くできていなかった)。

 そもそも登場人物の内面を掘り下げることと物語のダイナミズムとは、描く上でどちらか一方を選ばなければいけないものではなくて両立できる要素です。(ちょうど観たばかりの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』が正にそれを体現していました。)敵役の行動原理が「現人類は存在するに値しない」ということならそれでいいのだけど、なぜそう思うに至ったのか?5000年前に体制側によって裏切られた恨みを現在で晴らそうとしているのなら、江戸の敵を長崎で討つくらい的外れであるし。その部分をしっかり描かないから(※1)主人公サイドとの激突が全く盛り上がらない。

 それをさておいても、根本的な部分に問題があると感じました。主人公の発言で「僕だってどうして戦わないといけないのか分からないのに」というようなものがありましたが、バイトと並置されるような呑気さであって、怪獣と伍する力を託されたからだという認識がない、市井の人々の命がかかっているという切実さが全くない。ジャンルとしては巨大ロボ(ヒーロー)ものですが、作り手と視聴者が「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という原則を共有していないと成立しないのではないでしょうか。登場人物たちがヒーロー活動と内的葛藤との折り合いを付けるのはその先の話だろうということです。

 「巨大ヒーローもの」としてのお約束として「民間へのダメージは不問とする(存在しない)」という設定ならそういうものとして飲み込むつもりだったけれど、エピソードのディテールとして描かれるように実際には相当な被害がでているというリアリティの線引きがされていたので、中途半端にそんなことしないでほしい、ノイズでしかなかった印象です。主人公サイドと敵役の対決は、観念的で遊戯的なものでも物語上差支えなかったと思うのだけど、そのような描かれ方をしたために結果として敵役は「血であがなう」しかなくなってしまった(※2)。そこも後味が悪い理由でした。

 まあ端的に言えば自分がお客さんではなかったということなのだと思いますが、閉じたファン層にだけ届けばいいという作り方は作品の可能性を狭めるだけではないでしょうか。巨大ロボ(ヒーロー)を大人向けにリファインするというのはこういうことではない気がしました。

☆☆☆

※1 12話もあるのだからいくらでも尺は取れたと思うし、中途半端な(視聴者におもねるような)日常描写はいらなかった。

※2 主人公サイドのガウマが最後の対決に臨んでのセリフで「お前たちのせいで…」というものがありましたが、その先の言葉を濁すしかなかったのは敵役に「見合った報いがない(まま許されている)」ように見えてしまうことも理由だったのではないでしょうか。