世評の大絶賛に対して、傑作と認めるのにやぶさかではないけれども、そこまで素晴らしかったかな・・・とリアルタイムで見て以来ずっとそのギャップが飲み下せないままだったのですが。ひとつ思い当たることとしては、『ビギンズ』の評判の悪さで期待値が激減している、いわばノーガードの状態で本作を見た人の印象と、実は『ビギンズ』がかなり好きで最初から期待大だった僕とでは、そもそも先入観との振幅に大きな違いがあったのでは、ということで。それはさて措いても、「そういえばジョーカーとの決着はどう付いたんだったっけ?」という肝心なところすら既にボンヤリしてきてしまったので、改めて確かめてみようと思った次第。以下、ネタバレ御免で。
結論を先に書くと、すっきりしなかった最大のポイントは「シンプルな話なのに、語り口にノイズが多いせいで一見複雑そうな印象を受けてしまう」ということでした。(ノーラン作品でよく批判される「アクション演出がガチャガチャしてて、何が起こっているのかよく分からない」ということと実は同根だと思うのですが。)これと対照的なのが『ボーン・スプレマシー』のような「複雑な話なんだけど、語りがクリアなので最終的にはストンと腑に落ちる」演出だと思います。(似て非なるものに「観客置いてきぼりで複雑な話が複雑なまま進行するけど、最低限主人公が何か核心に近づいているということだけは分かる」という演出もあります。EX.『大統領の陰謀』『チャイナタウン』)
「語り口のノイズ」の例ですが、序盤、マフィアの麻薬取引の現場に「複数の」バットマン気取りの自警団が現れます。そこにご本人登場!だけならまだしもなのですが、スケアクロウまで意味深に登場しているものだから、この時点では観客としてはどの要素にフォーカスすべきなのか混乱してしまいます。【答え:スケアクロウ→ただのファンサービス、ニセバットマン→「正義」を引き受けるとは何ぞや?という中心テーマの前フリ】ということが後から振り返ると分かるのですが、かてて加えて、中盤でシフという「ジョーカーに心酔する警察の格好をした犯罪者」を演じる役者が、なまじキリアン・マーフィーに似ているせいで、あれ?スケアクロウ捕まったんじゃなかったの?という混乱をさらに招きます(単にノーランが好きなタイプの顔だったという)。
ちょっと分かり難かったですかね?こちらの例はどうでしょうか。レイチェルとハービーを別の場所に同時に監禁し、どちらを救うか選択を迫るジョーカー。実はここでわざと実際の場所をシャッフルしてバットマンに教えるのですが、レイチェルを救うつもりでハービーを見つけたバットマンが、そのことについて何のリアクションもないため、観客の方があれ、逆じゃなかった?となってしまう。さらにもう一つ。ウェイン主催の集金パーティでレイチェルがビルから突き落とされたのを辛くも救出したバットマン、ひと安心して交わす笑顔。しかし会場にはセレブと一緒にまだジョーカーがいるんだけど・・・
前者なら「レイチェル・・・」というセリフとか、後者なら「パーティはお開きだ」と引き揚げるジョーカーの画とか(まあ陳腐な対案ですけど)、くだくだしい説明である必要はないけれど、ほんの数秒あるだけで納得させる「お約束」のカットが見事にスルーされている。その一方で良かれと思って余計な要素(ノイズ)が付け加えられている、というケースが散見されます。何というか、観客の求める「定石」と監督の「親切心」のボタンの掛け違い・・・
それで思い出したのが北野武版『座頭市』の終盤のあるシーン。決戦の場所へ向かう市が、なにを思ったか田んぼの側で倒れている案山子をわざわざ起こしてあげるというカットが入ります。これは実は最初から盲目ではなかった(目で見てないと分からない位置だから)という伏線なのですが、親切すぎるあまり、脈絡からすると余りに唐突な描写のため深遠な理由を探してしまう、という誤読が多発しました。なんだかこれに近い気がして・・・
全体としては再見しても面白かったのだけど、やはり諸手を挙げて絶賛はできないかな、という感じ。その最大の理由は、上記に挙げたような演出上のノイズによって散漫な印象が拭えないからです。ジョーカーの顛末すら曖昧になってしまうのもそのせいであるような。ただこれだけ大規模な作品を捻じ伏せる膂力は素直に賞賛すべき、という気持ちに改めてなったので前回に☆半分プラスということで。
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