十三人の刺客【オリジナル版】(工藤栄一)

 リメイク版を観終わって時間が経ってみると、画作りの上手さや脚本の巧みさを反芻するうちに自分の中での「傑作度」が上昇してきて、これはオリジナルの方も復習しなければ、と今回観てみました。以下、異同を含む新旧比較してのメモです。
 ・まずオープニングの間宮図書切腹シーンからして、同じ構図。リメイク版で「これは?!」と思わず居住まいを正したのは、幕閣が切腹後の処遇について検討する際の言葉遣いの「本格度」だったのだけど、このセリフがほぼ同一。今の時代にこういう言葉が書けるのかと脚本に感心したのですが、時代劇の伝統がまだ辛うじて地続きだった頃のオリジナルを踏襲していたのですね。このシーン以外にも後々要所要所で同じセリフや同じ構図を採っていて、リメイク版のオリジナルに対するリスペクトが感じられ、好ましく思われました。
 ・暴君、松平斉韶は本当にひどい殿様なのだけど、稲垣版を観た後では「わがままが過ぎるきかん坊」程度に思われて、狂気までは感じられませんでした。この点は、十三人の(ひいては観客の)なんとしても奴を成敗せねば、というモチベーションとカタルシスにも直結する訳で・・・リメイクでは「自分の置かれているポジションを冷静正確に認識しながら、あえての暴虐」という落差が恐ろしさを演出していたわけですが、その根拠を求めるならやはりそれはセリフにある。ここでもリメイク脚本の上手さを再認識しました。もちろんそれを正面から体現した稲垣吾郎も素晴らしかった。
 ・最後の大バトルに至る過程にも新旧違いはあるのだけど、個人的には一番の違いは新六郎の造型。こちらでの彼は、ディレッタントをもって自認するようなキザな道楽者。叔父の新左衛門に対しても「要職にあるかもしれないが、「遊び」を知らなければ人生の半分は無駄にしているようなもの」と半ば侮っている。ところが、彼の三味線を見つけた新左衛門が超絶技巧をみせるに及び、中途半端だった自分の心の目を見開かれた思いがした新六郎は一転、作戦参加を決意するのだった。
 実はこの後「いつお帰りになるの?」「遅ければ次の盆に戻るよ」という、これは気が利いてるなあ、とリメイク版でも感心したあの同じやりとりがあるのですが、文脈が異なるため、違う響きを持って聞こえるんですね(こちらはむしろ悲壮な印象)。心憎いアレンジ。山田版新六郎が「どうせ持て余していた人生。この大博打に張らなくてどうするんですか」と合流するのとは対照的。どちらが粋かといえば圧倒的に山田版でしょう。
 ・さてリメイク版、博打というキーワードもそうなんですが、冒頭で釣りをしているところを召喚された新左衛門。物語では後々釣りと博打の例えが効いてくるんですよね。これはオリジナルにない要素で、なかなか現れない斉韶一行にイライラする一同を説得するのに、役所新左衛門は「それが釣りの勘所というものでな」という例え一発で納得させるのに対し、まあまあとなだめるだけの片岡新左衛門。新左衛門ついでにいうと、旧作、最後の戦いでまでリーダーが汗をかかないのは如何なものか・・・
 ・なんだか結果的にオリジナルへの不満点を列記した体になってしまいましたが、最初からこちらを観ていれば傑作!という感想だったと思います。むしろリメイクのアレンジの素晴らしさを称えたい。天願大介は本当にいい仕事をしていたのだと感心しきり。(三池版の☆を4つに修正しました。)
☆☆☆1/2