スローターハウス5(ジョージ・ロイ・ヒル)

 村上春樹もオマージュを捧げた有名なフレーズ、「そういうものだ」がどのように処理されているか非常に気になっていたのだけど、結論を申せば出てきませんでしたね。その代わり主人公ピルグリムの造型があらかじめ全てを諦めて、周囲のどんな事柄をも「そういうものだ」と受け入れているようなキャラクターになっていました(これは原作どおり)。
 そのような諦念に支配されたかのようなヴォネガットの作品の無常観というのは、自身が体験した凄惨なドレスデン大空襲に基づいているのですが、原作は満を持して(というより、ようやく作品中に出せる程度に自らの中で消化できたということなのでしょうが)その体験を中心に据えた作品になっています。必然的にこの映画のなかでもドレスデン大空襲のシーンがクライマックスの位置を占めているのですが、単に反戦というに留まらない奥深さをもった作品でもあると思います。
 ただ我ながら捻くれたものの見方とは思いつつも、これが自軍による空爆(米英共同作戦だった)ではなくてドイツ軍の空襲だったらどうだったのだろうか?というのは原作を読んでいるときにも気になったことで。「敵国許すまじ」で終わりだったのではないか、と断じるほど単純な話だとはもちろん思わないけれども。広島・長崎の原爆の悲惨さやその作戦の妥当性についての疑問をインタビューで述べている人でもあるし。
 さて、映像作品としての「スローターハウス5」ですが、「そういうものだ」と全てを受け入れている主人公とコントラストをなすように、周囲の人物の厚顔さ、無神経さが小説より際立って感じられました。特に自らの善意を疑うことを知らない主人公の妻がどうにも・・・。
 ただ「本当に善良な」戦友のダービーが迎える不幸な結末については、演出上その「善良さ」について保留されているような印象を受けました。というのは、ある出来事に対して一般にいう「あんなにいい人なのにこんな悲惨な目にあって」という感想は、その裏に「そのいい人さ故に不幸なことになってしまうのだ。むしろその善良さが罪なのだ」という要素を含んでいる、というシビアな現実認識に基づいている気がしたので。ちょっと回りくどい書き方になりましたが、例えていうと小説『ボヴァリー夫人』のシャルルみたいなポジションの人物だなと思ったのです。(余計分かりにくかったかなあ・・・)
 ところで時空を軽々と超越する原作の話法を直球で映画化したのは英断ですね。
☆☆☆1/2