メイキング・オブ・ピクサー 想像力をつくった人々(デイヴィッド・A・プライス)

 熱心なアーケード・ゲーマーだった人なら何となく察していただけるかと思うのですが、「バーチャ・ファイター」から「バーチャ・ファイター2」へ、或いは「リッジ・レーサー」シリーズといったゲームは、バージョンが更新される度に画期的な画像処理技術を導入して我々の眼を驚かせてくれたものでした。グロー・シェーディングやテクスチャ・マッピングなど、詳しい理屈は分からなくとも実際の画面自体に圧倒的な説得力があったし、その言葉の響きは実に魅惑的で、「ファミ通」や「ゲーメスト」のコラムは素人ながら興味深く、熱心に読んだものでした。いってみたら「技術萌え」でしょうか。
 ピクサーアニメの登場というのは(僕からすると)大雑把に言って、そういった「絵筆」が準備されて、天才ラセターが「機は熟した!やってやるか!」と思い立ち、クールなコンピュータ文化へのパトロンであるスティーヴ・ジョブズのバックアップを得て成立したものだ、と思っていました。これはある意味では正解なのですが、その実態はまるで違っていたことが分かる、そういうノンフィクションです。
 70年代初頭、エド・キャットムル(実は彼こそがテクスチャ・マッピングの考案者なのですが)を始めとする数人の青年が集まり、CGの技術を専門に扱う会社を立ち上げます。表向きはCMや映画の一場面の特殊効果を制作したり、それを画像化するためのハードウェアを開発するための組織でしたが、彼らの最終目標は別のところにありました。それは「全てCGによる映画を作る」こと。パソコンそのものが草創期にあって、果たして実現可能な夢かどうかも分からない。しかも現職のアニメーターはコンピュータに対する偏見を隠そうともしないという時代でした。そんなある時、彼らはディズニーから放り出された、しかし夢を託すに足るひとりの変わり者のアニメーターに出会います。彼の名はジョン・ラセター。しかしそれはピクサーの長く困難な道のりの始まりに過ぎなかったのです・・・
 ピクサーというとラセターがフィーチャーされることが多いけれど、実はその根本はCG界のハッカー達が何としてもアニメを作りたいという夢を抱いたからだった、ということを初めて知りました。ピクサー謹製の作品とそうでないフルCGアニメを比較して素人ながら何となく気付くのは、「ずば抜けて高い技術」と「細部まで行き届いた物語と演出」が両輪としてがっちり噛み合っていること。それはそもそもの成り立ちにあったわけです。業界のはみ出し者たちが「技術を売るのではなく、映画を作りたい」という旗の下に梁山泊さながら集う部分はワクワクしました(その分、軌道に乗ってからは長いエピローグみたいで盛り上がりに欠けるんだけど・・・) 。
 この本は、ラセターという「真のアニメーター魂」を持った王位継承者が、短期利益(「シンデレラ2」!)という悪魔に魂を売った「悪い大臣」に乗っ取られた王国に帰還するまでの貴種流離譚でもあります。(ピクサーファンは腑に落ちると思うのですが)実際思い返してみると、ピクサー陣からのプレスリリースはそういう意図に則って演出されてきたのに気付きます。ラセターがディズニーの「クリエイティブ担当最高責任者」に就任した時には、『リトル・マーメイド』に始まるネオ・クラシック時代の立役者、ロン・クレメンツ、ジョン・マスカーすら放逐されていたというところからも「帝国」は相当末期的だったことが伺えます。 ただ『バグズ・ライフ』VS『アンツ』騒動で、「悪しきハリウッド・タイクーン」のイメージが定着してしまったドリーム・ワークスのKことジェフリー・カッツェンバーグですが、これを読む限りでは結構同情の余地がある人だなという気がしました。
 ところで、どんな物語であっても「魅力的な敵役」がいないと話が盛り上がらないけれど、この本ではそれは最大の支援者にして最強の独裁者、スティーブ・ジョヴズです。とにかく狭量で、かつ金にがめつく強欲、しかしその一方、強力なカリスマで関わる者を虜にするモンスターとして登場します。知っている人は知ってる話なんだろうけれど(それと著者の視点というバイアスもあるけれど)、かなり今回の読書でイメージが変わったなあ・・・
☆☆☆☆☆
※タイトルは原題の『ザ・ピクサー・タッチ』が良かったような。