表題作に尽きる。実際この短篇のためだけにでも手に取る価値があると思います。
今回集められた短篇は、全体として極限状況に置かれた人間の精神の在り様と自然への畏怖がテーマ。クライマックスに向かって研ぎ澄まされていく描写の積み重ねには、ぎりぎりと引き絞られて力をためる弓を見ているような緊張があります。それがもっとも激しく、かつ純化されたかたちで描かれていたのが『火を熾す』でした。
アラスカの氷原をひとり旅する男。仲間との合流ポイントまでは、余程のミスをしなければ難なく辿り着けるはずの行程だった。ところが氷の下に仕掛けられた罠のような湧き水に足を濡らすという不運に見舞われる。ここは零下75度という想像を絶する極寒の世界、速やかに火が熾せるか否かが死命を分ける。男は慎重にマッチを点火するのだが・・・
ところで連れの犬が物語の絶妙の合いの手になっていて、と書くと「小説の緊張と弛緩のリズムで、犬の愛らしさが息抜きになっているのだな」と想像されるかもしれないですが、そういう「萌え」的なものとは真逆のベクトル。犬が対置されることで、圧倒的な自然を前にしては人間も一匹の獣にすぎないという容赦なさが際立ちます。
ロンドンの武器は、読むことがそのまま感じることであるかのような、身体感覚に直結した描写のようです。読み終わる頃には指先は凍傷で感覚を失い、身体はフルラウンドを戦い抜いてヘトヘトといった按配。そういう意味ではボクシングを扱った『一枚のステーキ』や『メキシコ人』が作家の本領発揮といった感じで良かった。
マッチョなネタを扱っていることが多いせいか、寒い地方のヘミングウェイといった印象もありました。原文にあたったら全然印象は違うのかもしれないけど。
☆☆☆☆(「火を熾す」は5点)
※次回の柴田元幸翻訳叢書はマラマッド。新潮の短編集しか読んだことないけど、これも期待できそうですね。