リテラシー?

 結構前に『コワイ女』をDVDで観たのですが、特典はそれぞれの監督がゆかりのある他の監督と、シーンごとの演出意図について語り合うという形式のコメンタリーでした。

 その中の一作である「うけつぐもの」は豊島圭介篠原哲雄というちょっと意外な組み合わせ。既にご覧になった方はご存知のとおり、この作品はごくオーソドックスなホラーで、金田一シリーズの系譜に連なるような、因習がらみのドメスティックな怪談です。

 映画のシーンというのは、こういう場面においてこういう演技なら、その意図するところはこれこれというのが明快である場合と、判断を観客に委ねているというふたつのケースが考えられますが、ジャンルムービーであればそれは殆ど前者であるといっていいと思う(リドルストーリーとして、結末をわざと伏せている場合を除けば)。

 だからこの作品でも、コメンタリーで監督によって開陳される演出意図はほぼ自分が思っていたとおりだったのですが、明快な演出に対して篠原監督が誤読としか思われないツッコミを入れるのですね。

 あるいはプロゆえに穿ちすぎだったり深読みしすぎたりということが発生するのかもしれないけれど、本業の人ですらそうなのだから、観ているのは同じ映画なのに、自明だとおもって受け止めていた物語でも、ある人はまったく別の物語を読み取っているということは普通にありえるのだな・・・という当たり前のことに改めて気付かされてちょっと愕然とした、ということがありました。それって映画だけに限らない話だけれど。