どーなつ(北野勇作)

 語られる物語のなかに、その小説自身の構造について言及する箇所がある、というメタな仕掛けは割りとよくあるものだけど、「理屈が勝ったスノッブな感じで小説自身の完成度はいかがなものか・・・」というこれまたよくある失敗には陥っていなかった

 語られた「自身の構造」というのは→「落語」:話者によって視点や解釈が変わる。そして落語の演題である「あたま山」:自分の頭にポッカリあいた池に身を投げて死んでしまう。これはこの小説が同じ世界を舞台とする連作短編の体裁をとっていながら、語り手の「地のレベル」が微妙に異なるところ、またそれを原因とする「自分の頭に身を投げる」ようなありえない展開が発生するというつくりを指している。これが作者の自己満足に終わらず、(混乱しがちな作品世界への)読者への道標として機能しているところがなんとも上手い。

 別の言い方をすると、幾つかの要素(「電気熊」「田宮さん」「火星」「戦争」)が描かれたレイヤーがさらに何枚もあって、それらの重なりあい加減で複数の物語が立ち上がる、というイメージ。「結末で大きな解が示されて、それまで提示されていた世界観をひっくり返す」というようなカタルシスを求めるむきの読者には向いてないけれど、ノスタルジアというコンセプトで一本筋が通っているので話には入りやすい。こういうのもいいですね。
☆☆☆