(このテーマは、いろんな人がいろんなところで既に何百回となく発言しているだろうことを、今俺が発見したかのように憶測に基づいて断言するものです。)
『がんばっていきまっしょい』(田中麗奈主演の映画の方)が公開された前後、松山(四国)が物語の舞台として選択されることがやけに多かった。思うに、日本では絶滅寸前の「純朴さ」みたいなものがここだったらギリギリ辛うじて生き残っているのではないか、という一種のファンタジーの場として機能していたような気がする。(EX.『海がきこえる』)
ところで現在パチンコ化までされた『冬のソナタ』だけど、ブームの最盛期に「これって結局、一昔前の少女マンガなんだね」という言われ方をしてたのをよく耳にした記憶がある(記憶がある、っていったってついこの前だけど)。
さて同じスタイルで放映され、只今ブレイク中の『宮廷女官チャングムの誓い』。同じ言い方をするならば「これって花登筐ものなんだね」ということ。ドラマの最後の方になって事件が勃発、「なんだって!?」みたいな「引き」があって、次回の冒頭15分くらいでその件については解決、しかしその回の最後の方になったらまたしても事件が勃発するのであった・・・まさしくクリフハンガー・スタイル。中毒性は高い。という構造がまさに『細うで繁盛記』や『あかんたれ』なのですね。
こういう韓国ドラマの需要が高いというのは、花登筐作品のような「純真で努力を惜しまない人間が最後は勝利し、悪人は改心する」というドラマが現在の日本では正面切って作りにくい、もしくは「アナクロなのは分かっててやってます」というエクスキューズなしには成立しにくい状況があって、需要があるのは分かっていても企画として通らないという現状があるからだと思われる。
それが、「お隣の国韓国」というフィルターを通すことで、「日本では絶滅寸前の「純朴さ」みたいなものがここだったらギリギリ辛うじて生き残っているのではないか、という一種のファンタジーの場として機能している」ような気がする訳です。それだけに気になるのが、本国での受容され方。やっぱり時期的(経済の面でも)にガンバリズムみたいなものが肯定されていた頃=20年前の日本みたいな感じなのでしょうか・・・