ブラック・ハウス(S・キング、ピーター・ストラウブ)

随分前に前作「タリスマン」を読んだ。新潮文庫から出ていて、帯を糸井重里が書いていた。「私はタリスマンのセールスマンになってもいいと思っている。とにかくおもしろいぞ」だったかな。うろ覚えなんだけど、そんな感じだったと記憶している。一行何千万のコピーライターにしては気が抜けたコピーだなあと思ったものだ(でも買ったっていうことは広告としては正解なのか、しまった!)。

というのは完全なる余談なのだが、当時(そして今も)ろくにキング作品を読んでいない人間のイメージからすると、随分正統派のファンタジーだなと感じたものだった。そして大変面白かった。ファンタジーのサブジャンルとしては、「はてしない物語」に代表されるような「越境もの」であり、旅の経過が幼い主人公の成長過程に重ねられているビルドゥングス・ロマンであるところも伝統に則っていた。

そして今回の作品。印象をいうと、ファミコン時代に「女神転生2」の壮大な世界観に圧倒されて、期待して次に出たスーファミの「真・女神転生」をやったらなんだかご近所で話が完結してて、(ゲームそのものの面白さは別にして)なんだか肩透かしだった、あの経験に似ていた。小説のボリュームは上・下巻で変わらないから、要は人物や風景の描写に字数がより費やされている勘定になるのだが、キングの「余白があったら書き込みたい」というオブセッションにも近いスタイルは時を重ねてますます過剰になっているようである。

ただこれは共作なので、実作業としてどのようなキャッチボールが行われたのかわからない。気になったのは、ややネタバレなんだけど、解説でも触れられているようにこの作品がキングのライフワークである「暗黒の塔」シリーズの一角を担うことになってる点。それをストラウブがよく容認したな、と。なんだか手柄を取られたような気分にはならないのだろうか?売れるんだったら関係ないのかな。

「主人公がジャックつながり」で連想したのだが、押しも押されもせぬ「大家」として名を成すと、1つの大きな作品に過去の全てを収斂させたくなるのが作家としての生理なのだろうか。永井豪しかり、手塚治虫しかり。個別の作品に思い入れがあるファンからすると侮辱されたような気分がするともいうが、何となくそういう意見は分かる気がする。