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マン・オブ・スティール(ザック・スナイダー)

 冒頭、クリプトン崩壊に関わるてんやわんやがあるのですが、スター・ウォーズ新3部作のがっかりした要素を拡大したようなというか、『リディック』のような安っぽさというか、「ああ、映画観終わった後で、ここのくだり蛇足だったな、って思うんだろうな」と思いながら観てたら、実は映画全編これ蛇足だったっていうね・・・(今回は厳しめなので、楽しまれた方におかれましてはご容赦ください)
・そもそも、ゾッド将軍の武士魂というか、方法は完全に間違ってるけどクリプトン再興に掛けた想いだけはよく分かる、ってなるほど人物に奥行きがない(だから衝突にドラマが生まれない)、クラークにしても「世間から疎外されて、人生を顧みてもむしろ辛かった思い出しかないけど、でも僕はアメリカ人だ!」という感じは受けないし(主人公なのに寄り添えない)、ロイス※1との気持ちの通い合いの側面もよく分からない内に好きになっちゃってるから「両親のこと以外、正直地球がどうなろうと構いはしないけど、でも君のためだけに世界を守る!」みたいなデビルマン的盛り上がりにも欠ける・・・つまり全方位的に描きこみ不足としか言いようがない。これじゃキャラクターに共感しようがない。
・ドナー版『スーパーマン』が良かったのは※2、「日常の」災厄をスーパーパワーで解決!でも普段のケントは「あいつまた肝心な時にいないんだから…」という冴えないサラリーマン、という振り幅の大きさにあった訳で。それをその当時進歩著しかったSFXによって画として実現したのが大ヒットの要因ではあったものの、その一方で、「拳銃強盗に襲われたケントを心配するロイス、本人は平気だというが確かに撃たれたはず?さりげなく立ち去る彼の掌からは弾丸が…」※3みたいに、特撮なしで超人ぶりを十全に描き出す、その緩急使い分けたスマートな演出が素晴らしかった訳です。しかし残念ながら、その後の娯楽大作の方向性は、特撮の許す限り派手に、過激に、という拡大再生産の道をひたすら歩んできました。
・繰り返しになりますが、脱線事故を未然に防いだり、落下するヘリを拾ったり、という日常の中にあらわれた非日常の異物を画として見せる振り幅に面白さがあったのに、感情移入できる充分なタメの描写もないまま「突如現れた宇宙船による大破壊、超人たちのどつき合い」を見せられても心は萎えるばかり・・・やっぱりクライマックスを迎えるにはそれなりの手順というものがあるんですよ。今回唯一昔のスーパーマンの匂いがあったのは、石油プラントからの脱出劇くらいかな。
・大体、でかい予算をぶち込めばCGIでどんな画でも作れるようになった昨今、そういう方向性には観客もいい加減食傷ぎみだから、というところで、(格闘演出は下手だけど)コンセプトを考えさせたら一流のノーランが任されたのだと思うのだけど、結果がこれ(真・実写版ドラゴンボール)でよかったのかしら?
・抒情的な予告編がすごく印象的だったので、なんなら8割くらいは何ら派手なことの起こらないスーパーマン、という案配でもよかったのですが。実際の本編では2%くらいの成分でしたね。そこで対案:ゾッド将軍のくだりはいろいろ事件を解決した後で、最後の15分に登場「(そもそもカル=エルを追ってきたのではなくて)クリプトフォーミングに適した惑星、地球を発見。下等生命体となめてかかった将軍だったが、思わぬ伏兵スーパーマンが。そうか、憎きジョーの息子はここにいたのか。ここで会ったが百年目、覚えてろよ!(つづく)」にすればよかったのに。
・ということで『スーパーマン』はつくづく傑作だったな、また日曜洋画劇場でやったらいいのに、との思いを新たにしたことでした。
☆☆1/2
※1 エイミー・アダムスのリアリティのある佇まいをもってしても如何ともしがたかった…
※2 意外だけど脚本は『ゴッドファーザー』のマリオ・プーゾなんですよね。
※3 今だったらスローかつCGで弾丸を掴んだりしちゃうでしょ、そうじゃないんだよ!