告白(中島哲也)

 感想を先に言えば受け入れ難かった。作品に懸けられた熱量は半端じゃないし(あんな細かいカット割り、素材を撮り上げることを考えただけでも気が遠くなる)、演出は憎らしいほど上手い(松たか子のポテンシャルをギリギリまで引きずり出したファミレス後のシーンと結末の凄み)。のだけれど、うーんフィクションとして楽しむには生々しすぎたというか、生理的・反射的な嫌悪感で客観的に飲み下すことができなかったというか・・・。学校という世界に何かしら関わりのある人生だったので(別に教師という訳ではないですけど)その点を割り引いてください。
 「決断主義」的な世界観(とそれを称揚するような風潮)への嫌悪というのは、割と感想文ではちょくちょく書いていることなのですが、何というか観客(読者)の感情を揺さぶる技術としての「ためにする過剰性」というのは果たしてありなのか?というのがずっと創作的分野への疑問としてあって。映画でも、小説でも、マンガでも、芸術の世界でも、考え出すと際限がないのだけど(それにそもそも「クリエイティブな営みとは感情を揺さぶることが第一義である」と大雑把にいえなくもないけれど)、結局「作品上の必然」と「技術」の客観的な線引きというのはどこまで行ってもできるわけがなくて、つまるところ受け手の個人的な感情に左右されるのみですよね。 そうはいっても、状況設定をどの程度のさじ加減にするかは作り手の胸三寸でもある訳で。余りにも過剰だと「そこまでする必要、あった?」という気が正直するのです。
 ところで原作未読のまま推測で語りますが、冷静に考えてみたら登場人物の奥行きは余りにも薄っぺらい。まさに観客の感情を揺さぶるためだけに動機と行動が設定され、物語に必要とされる以外の部分の行間が感じられない。また前半はともかく、爆弾のエピソードあたりは飛躍しすぎでトーンの齟齬がある。ところが映画を見ている間は、そういうことがほとんど意識されなかったんですね。映画として必要な要素のみ抽出して再構成する、その手際の良さが映画版が高く評価されている所以ではないかと思いました。
 そこで件の「なーんてね」についてですが、ここは映画オリジナルだそうで。個人的には「更正なんぞ期待しちゃいねえんだよ」と受け取ったのですが、その言葉がどこまで遡って「かかる」のか含みを持たせた終わらせ方に監督のセンスを感じたし、『ユージュアル・サスペクツ』的で面白かったです。
☆☆(ちょっと冷静にジャッジできなかったですね)