フリッカー、あるいは映画の魔(セオドア・ローザック)

 <ネタに触れます>映画好き必読!と話題になってから幾年月(邦訳からもう10年以上なんですか!?そりゃ年も取るわけだ・・・)映画好きとしてようやく読みました。原題どおり只「フリッカー」とせずに「あるいは〜」と加えた邦訳タイトルが秀逸。これって結構大きなフックではなかろうか。
 ただの映画ファンであった青年ジョナサンは、強固な理論と鋭いセンスを併せ持つ年上の女性クレアと出会ったことで、いつしか映画を人生の糧そのものとする道を歩み始める。そんなある時、彼はカルト映画監督マックス・キャッスルの作品に出会う。若さゆえのクレアへの反抗心から、唾棄すべきと彼女が断じるキャッスル作品にのめり込むジョナサン。しかしそれは想像もしなかった深遠なる映画の魔の世界への入り口でもあった・・・
 まず読者が観たくなるような作中映画の描写が冴えている。異なるメディアにおける作品の素晴らしさを説得力を持って描くというのはかなり難しいと思うのだけど(そして難しいからこそ作家もチャレンジしたくなるのだろうけれど)、トライしたあげく惨憺たる結果に、というケースもままありますよね・・・ベタなところではジャズにとりつく悪魔とか(スタージョンとかボーモントはその点かなり上手かった記憶があります)。心奪われる作品にはそれこそ「悪魔的な魅力」があるけれど、それが文字通りのものだったら・・・という発想の飛躍がまさに奇想。
 (素人なので思う存分素人臭い感想を書かせてもらいますが)パワーズみたいな博覧強記系の作家ってよくネタが続くよなあと思うんですよね(正直『舞踏会へ向かう三人の農夫』しか読んでないけども)。ところがローザックは引き合いに出されていた『薔薇の名前』のエーコ同様に、やっぱり専業小説家の人ではなかったのですね。こういう系統の小説はそうそう何本も書けないだろうというボリュームに圧倒されました。陰謀史観をやるならこれくらい徹底してほしい、と最近前日譚が映画化された例の小説を思い出したり。
 それと実は結構いい歳の人なので、作中言及されるウォーターズ作品やトロマ映画のようなトラッシュ・ムービー、ひいてはスカム・カルチャーといった「悪趣味文化は如何にして発生するに至ったか?」という素朴な疑問が発想の起点にあったのではないかと想像しました。ごく個人的な感想としては、数年前に友達を訪ねたUCLA界隈が舞台なのでちょっと親近感があったなあ。
☆☆☆1/2(落とし方が好みじゃなかったので☆半分)
※細かいことだけど、僕も「すべからく」の誤用が気になりました・・・流麗な文体で語られる物語だけに、そういうミスはなまじな小説よりダメージが大きいような。