タンノイのエジンバラ(長嶋有)

 団地の隣に住む徒っぽい女から娘の世話を押しつけられた失業中の青年。その所在ないひと晩の交感:「タンノイのエジンバラ」。両親の離婚で離ればなれに成長した姉妹弟は、父の死を目前にして・・・:「夜のあぐら」。半年前に離婚した実姉と妻と自分の「気の置ける」バルセロナ観光旅行:「バルセロナの印象」。ピアノ講師を辞め、秋子はパチンコ屋でアルバイトを始めた:「三十歳」。
 現在の生活に決して充足している訳ではないけれど、それを他人に説明するのも面倒で、ただ状況のままに生きている、というのが主人公たちの概ね共通したプロフィール。ニートの弟や図々しくも魅力的なダメ男、精神的に追い詰められた姉、といった人生への闖入者によって主人公の世界は揺り動かされる。結果、思い至るのが「結局、私には(或いはそもそも人は)他人の気持ちなど分からない」ということ。それは血を分けた肉親であっても例外ではない、という冷徹な真実。この頃の作品はまだあえて露悪的な線も強調せず、不思議とやさしい語り口なので読後感はよいけれど、無常観は通底している気がします。ただそれを前提とした上での、些細な事柄から気持ちがほころぶ/心が動く瞬間の描き方が素晴らしいんですね。(そうである一方で、半個室の漫画喫茶で唇を奪われる瞬間の「安いシチュエーションだな」というようなやさぐれた感慨と、そこに畳み掛ける「唇よりも握手した時の指先がずっと感動した」みたいな描写があるのがまた味わい深い。)
 さらにそれとは別に、読むとハッとさせられるのが、例えば「(栄養ドリンクの)細長い箱はすぐに倒れて大きなカゴの端まですべった」、みたいな瞬発力のある(しかし登場人物の感情を仮託してではなく、純粋な情景描写としての)ディテール。こういう部分は作者の俳人としてのスキルが活かされているような(まあ、やりすぎちゃうこともあるんだけど)。
 現時点までに読んだ長嶋作品ではベストでした。
☆☆☆☆1/2