袋小路の男(絲山秋子)

 高校時代の片思いから始まって、お互いにある種かけがえのない存在となったのに、最後の一線だけは越えない不思議な関係を紡ぐ20年弱の物語。ところで惹句は「純愛物語」となっていたけれど、果たしてこれは純愛なんだろうか?むしろ「純愛」みたいな単純なことばに還元されえない、複雑で微妙な「人間関係のままならなさ」を掬い取るのがこの作者の巧みさだと思うのだけど。
 というわけで、今回も上手いなと感心。なんでもない話をツルツル読ませるストーリーテリングも素晴らしい。以下気になった点をいくつか。
 『袋小路の男』と『小田切孝の言い分』は姉妹編で、前者はヒロイン「私」から「あなた」(=袋小路の男=小田切孝)へという主観で語られる物語。主観ということは「信頼できない語り手」でもあるわけで、「ヒロインの思い入れの過剰さをどの程度に見積もるか」という読者に委ねられた行間があって、そこがまた読ませどころでもある。後者は私(大谷日向子)と小田切孝が双方の視点から二人の関係を語り合うという趣向。いわば解答編で、ミステリでもそうであるように、理に落ちてしまう分盛り上がりには欠ける。ただ『袋小路の男』でも匂わされていた「自意識過剰で実がない男」ぶりがあからさまになる分、二人の関係性はより味わい深いかもしれない。個人的にはハンサムという描写を勘定に入れても小田切という男のよさがさっぱり分からないので、恋愛物語としては感情移入しにくかった。これはしかしヒロインの友人が「そんな不毛な恋愛は終わらせた方がいい(大意)」とアドバイスするように、小説自体がそれを想定していると考えた方がよさそうだ。
 さて、タイトルの『袋小路の男』は小田切が袋小路に位置する家に住んでいるというだけでなく、「小説家を志しながら実際には実現できていない」という彼の状況、さらに「膠着状態で建設的な出口が見つからない二人の関係」という二重、三重の意味が掛けられている。でもこれってメタファーとしてはあまりにも安易すぎないだろうか?それと『小田切孝の言い分』ではヒロインが肉体的な充足を求めてその場しのぎの付き合いをする中で、投稿マニアの男のいわれるがままに裸の写真をネットにアップされてしまう場面があるのだけど、この箇所はなんとなく「狙った異物感」という気がして。これは初期の作品だからということもあると思うけれど、絲山作品にはギミックをそうと悟らせてしまうぎこちなさがあって、そこがいつもちょっと残念だ。
 最後に3番目の作品『アーリオ オーリオ』。中学生の姪と手紙のやりとりをする叔父。小さくまとまってしまった関係性に充足していたはずの独り身の中年男が、それをきっかけにかつての女性との恋愛を顧みる。ほとんど書簡小説のような点描ですが、しみじみとした余韻を残します。男性読者はこれが一番好きなのではないかな。そういうレンジの広さも作者の魅力といえそうです。
☆☆☆1/2(『アーリオ オーリオ』は4点)