ブラック・ジュース(マーゴ・ラナガン)

 奇想コレクションから。オーストラリアのSF作家というと、ここしばらくはイーガンということになってた訳ですが、サイエンスというよりスプロール・フィクションの方のSF作家ですね。最近ではストレンジ・フィクションっていうのかな。まあジャンル分類は流行語的なものなのであれなんですが、例えばストレンジ・フィクションの旗手と呼ばれるケリー・リンクみたいに奇妙奇天烈な短篇ではあります。
 ただ、作者の方法論は「幻視したある一瞬の光景(夫殺しの罪を贖うためタール池に沈められる姉さん、狙撃銃のスコープから覗いた道化師)から、そういう状況へ至った過程を帰納的に構築することで作品世界を描き出す」というもので、世界観はそれぞれ魅力的なものの、残念ながらほとんどの作品がそれ以上でもそれ以下でもない印象でした。リンクの作品が、同じく訳が分からない(表面的には)にも関わらず何か人生のある種の真実を切り取って見せてくれたような感興があるのと比べて、正直物足りない。ただ原書どおりでもある物語の順序は、頭で掴んで後半にかけて盛り上がっていく感じが巧みで、短編集における配列の重要性を改めて思い知らされます。(『ヨウリンイン』のおぞましい怪物の描写には忘れられない強烈なインパクトが(クエイ兄弟風?)。そこからチルアウト:『春の儀式』で締めるというのも心憎い。)
 ところで、訳者あとがきの解説で『融通のきかない花嫁』を「主人公は確かに立派な考えではあるが、ここまで極端に融通が利かないと読者はイライラしてくる。それは作者の思うつぼ、ということだろうか」と評しているのだけど、読まれた方はいかがだったでしょうか?
 この作品は、庶民の出の女の子が、ハイソサエティの子女が集う、卒業するのもままならない程の困難さで知られる「花嫁学校」の最後の試験に臨む一日を描いているのだけれど、僕は「スマートではないかもしれないけど、自分なりの筋を通すために奮闘する若者の心意気」を描いたむしろ清々しい作品だと思ったのですが。訳者の読み方では、「一人称主観で語られる物語だけど、語られる断片から推測すると、主人公がそう思っている世界と事実とは乖離している」というタイプの作品(「信頼できない語り手」)ということですよね・・・
☆☆☆