テキサス・チェーンソー(マーカス・ニスペル)

 別にリメイク=悪と決め付けるわけではないんだけど。 
 きびきびしたアクション・ホラーの秀作として再生した「ドーン・オブ・ザ・デッド」なんかは好リメイクだと思うし、「ミニミニ大作戦」はスタイリッシュな佳品であった。という訳で、オリジナル至上主義ではないんだけど、この作品は頂けなかった。

 まず粒子の粗いニューシネマ・スタイルのホラーという点で時代そのものの恩恵を受けていた「悪魔のいけにえ」である。ドキュメンタリータッチでありながら、不思議と静謐で美しい瞬間を垣間見せる、あの独特の画面づくりは、どんなに頑張ったところで現在のクリアなカメラでは再現できないものだ。そしてその空気感がストーリーと渾然一体になったところに、オリジナルと凡百のホラーとを隔てている根拠がある。逆にいえば、ポップコーン・ホラー群と「悪魔のいけにえ」の差はほんの僅かなものでしかないということでもある。そしてこれらのことは、トビー・フーパー自身がついにこの作品以上のものを撮れないでいることからも明らかだ。

 なんていうのが、いかにもオリジナル至上主義の人っぽい口ぶりだなあと我ながら思うので、もっと簡単に具体的な比較例をあげてみたい。白黒じゃなくてカラー版の「ゲゲゲの鬼太郎」の第一作。主人公が登場しない水木しげるの短篇を、無理やり鬼太郎狂言回しに据えることで水増ししたエピソードの方にむしろ印象深い名編が多かったと記憶しているが、その後繰り返されたリメイクはいずれも凡作だった。本編のテイストに対して水と油の「夢子ちゃん」は比較にもならないけれど、その反省を踏まえたはずの再リメイクは、エンディングテーマに憂歌団、キャラクターに「メガネ」を復活させるという布陣で臨んだにも関わらず、結果、オリジナルには及ばなかった。そういうことだ。戦後から高度経済成長期の猥雑な勢いみたいなものを背景に持っていたオリジナルの雰囲気に、バブルを経た現在の日本では懐かしむ以上のアプローチができないところにリメイクの難しさがあるのではないだろうか、などと「テキサス・チェーンソー・マサカー」を見ながらつらつら考えていたのだった。

 つまるところ、オリジナルを名作たらしめている要素を、単純に「容赦ないスラッシャー描写」に求めたことに敗因があったのだと思う。中途半端に「物語」を導入して、不条理で突発的な事件に対して脊髄反射的にサバイバルする快感を削いでいるのも減点。個人的には優等生的発言で事態をどんどん悪化させる主人公の女の子にものすごく腹が立って仕方なかったし、そしてなにより「骨と肉のアート」が登場しないことが画的に寂しかった。

結論は「乳に惑わされてはいかん」ということですな。

☆☆