マッチスティック・メン(リドリー・スコット)

※ネタバレします。

 リドリー・スコットという監督は、ハリウッドの(といっても英国人だけど)なかにあっても、割りと作家性の強い作品を撮る人だという認識が初期作品においてはあったと思う。トレードマークはスモークと逆光、と揶揄を込めてそのスタイルが語られがちでもあった。

 けれども実はそれはカルト化した「ブレード・ランナー」(あの行間を読ませる語りといまだにビジュアル面でSF作品を呪縛し続けている未来都市像)の一見難解風な印象があまりに強くあったせいではなかったろうか。だからフィルモグラフィから「ブレード・ランナー」を除くと明快になるのがその職人監督ぶりである。エイリアンしかり、コロンブスしかり。彼は「物語が求める語り口」を選択しているだけで、それは一貫している。その視点から言えば、ブレード〜の宙吊りにされたような語りと結末も、ディックの原作の「アイデンティティの在り処とは?」という問いを誠実に映画化した結果である。

 といったことを、最近の諸作を見るにつけ思うようになったのであった。そこでこの作品であるが、古典的なコンゲームものを正攻法で映画化している。ミッドセンチュリー風の家具調度とそれを紹介する雑誌風の端正なグラフィックも自己主張しすぎて「語り」を妨げるものではない。実際あまりにストーリーテリングが滑らかなので、職人監督としての悟りの境地に達したのかと思われるほど。

 物語はコンゲームもので、意外などんでん返しが!的な宣伝だったので、またもや肩に力の入った鑑賞となってしまったが、ひねくれてない観客でも集中してみていれば、少なくとも「主人公の娘」を名乗って生活に介入してくる女の子と相棒に紹介された精神科医に胡散臭いところがあるのはすぐわかるはず。大変律儀に、画としてヒントを要所要所で散りばめているし、その上結末も「胸のすく大逆転」からは程遠いものであるから、宣伝としては「どんでん返し」を謳うしかなかったかもしれないが、本当のテーマは「一人の男の再生」なのだなと納得したしだい。処方された薬がプラシーボ効果に過ぎなかったことや、娘との邂逅を通じて精神的な圧迫から開放される=詐欺稼業を続けることへの罪の意識が病的な潔癖症の原因である、といった要素からもそれは明らかであると思う。

 ところがメイキングを見ると、監督が編集の段階で「観客にヒントを与えるのはこの場面で適当だろうか?」みたいなやり取りを編集者と綿密に繰り返していたようで。意外とコンゲーム本体のあり方にもこだわりがあったようだ・・・そういう点からもむしろメイキングが興味深かったかな。DVDで鑑賞される時はぜひ。しかし僕にはアリソン・ローマンが14歳には見えないという時点でこれが詐欺の本体やなとバレバレだったよ。