古森の秘密(ディーノ・ブッツァーティ)

 最近、何を読んでもあまり心を動かされることがなくて、年を取って感受性が磨滅してきたのか…残念なことだな、と思いなしてきたのだけど、久しぶりに読書で感動しました。

 初期作品だけあって、ディテールの異様なまでのクリアさ、突き放すような冷徹な視線、冷え冷えとした寓意、といった作者の特徴は控えめで、割とクラシカルな作り。しかし中編(というか児童文学だから?)のボリュームなのに物語中起こる事象の変転がダイナミック、それでいてリリカルだった。経験したはずのないことなのに、自らのかつての体験のかけらを反芻するような感触。

 主人公たる大佐、大風のマッテーオといった怪物的な登場人物は、しかし内側に人間的な俗欲を抱えていてそれが脆さ、弱さとなっている。しかも専制的な振る舞いの裏側では正しくありたいと渇望もしていて、その二面性が魅力的。(この二面性についてはあらゆる登場人物に及んでいて、その一筋縄ではいかないところが読ませどころになっている。)

 詩や自然描写の静的な通奏低音がある一方で、風同士の谷の支配権をめぐる戦いの描写も面白く、活劇的な躍動感もある。テーマと物語構造が一致する作品構成も見事。

古森の秘密 (はじめて出逢う世界のおはなし)

☆☆☆☆1/2

いまさらエグゼイド

 エグゼイドとは前作の仮面ライダーのことですが、正直途中までは結構期待して見ていたのです。(結局最後まで面白く見はしたのだけれど。)子どもに付き合って見てただけだから、ディテールは私の妄想による補完も大きいので、それくらいの感じで読んでいただければ。

 期待していたというのは、1.ライバルのパラドが主張する「ゲームの敵キャラだからって、創造主だからといって、好き勝手にできるなんて思いあがるな」という部分は『ブレードランナー』のバッティの主張に響き合うものを感じていたのですね。

 ステロタイプなようでいて、結構ハードな内容ともなりうる考え方なので、どう決着を付けるのかと思いきや、主人公がパラドに永遠の消滅=死を仮想体験させることで「どうだ死ぬのは怖いだろう?生命とはそれほど尊いものなんだ」ということを納得させる、という展開に。いやいや、それはパラドの突きつけた問いに答えていないどころか、尊いと判断した生命にしか価値を認めないという考え方でしょう※、と非常にがっかりした訳です。

 もうひとつは2.ゲンムこと檀黎斗。彼は「エグゼイド世界」のゲームメーカーたる存在でしたが、その主張は「人間の存在意義が意思や記憶にあるのなら、それがデータとして再現されうる限り肉体と等価だ」というものでした。それってイーガンに代表されるような電脳ものSFでは割とポピュラーな考え方ですよね。彼の(肉体を)失った母親への想いなどは膨らませれば面白い要素だったと思うのですが、物語が上記のような結論に収斂していくなかで後景に退いていきました。ここもがっかりポイント。

 本来子供向けの番組ですし、シンプルな勧善懲悪が本分だとすれば必然の展開だったのかもしれませんが、もうちょっと、こう、頑張ってくれてたらなあという残念な気持ちは否めなかったのです。(医療とゲームがモチーフだったけど、医療に携わる者の覚悟みたいな面も、ちょっとびっくりするほど薄っぺらだったしなあ…)。だから、いま放送している『ビルド』はポリティカルサスペンスものとして奮起してほしいと今また期待しています。

※ここらへんは非常に危ういテーマなので、だからこそどう落とし前をつけるのか楽しみにしてたんだけど…

ブレードランナー2049(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)

 最近のリブート的続編にありがちな、ブレードランナーといえばこれでしょ?といった感じの目配せが逆に面倒くさい、という個人的感想はあるものの、お金と手間の掛かったあの世界観の再現は観ていて目に楽しく、長時間も気にならなかったという意味では充分に面白かったといえる気がします。

 自分の中でのこうあってほしい理想の続編スタンスは、夏目漱石の『明暗』に対する水村 美苗の『続明暗』で、それは前作で提示されていた要素から推測される可能性を徹底的に追及して語りおとされていた展開を想像する、というアプローチなのですが、そのような側面は今作にも一応あったものの、食い足りない印象でした。

 公開時は小学生で、実際何を観たかといえば、ご多分に漏れず親に連れられて行った『E.T.』なのですが、映画館内にポスターが貼ってあって、なんかハリソン・フォードが出てるSFがあるんだな(そういえば予告で『物体X』もやってなかったかな・・・すごい年だな)、という漠然とした印象に留まっています。その後ほどなくして、深夜放送で『完全版』を見たり、自分も成長するにつれ小説をいろいろ読むようになって、「ああ、ハードボイルドっていうのはジャンルに拠らず使い減りしない様式だな」と感心してみたり、大学時代に『ディレクターズカット』で再会してこの世界観はやっぱり突出して凄いなと感動したり、リアルタイムで伝説化に立ち会ってきて今に至る次第です。

 というのは完全に余談ですが、オリジナルのどこに惹かれるのか、ということを改めて考えた時、それは先ず「異質なもの(外見もそうですが思考形態の距離感も含めて)に対する本能的な恐怖感」をホラーの感触で描いているという点でした。(具体的には、眼球製作所のシーンやセバスチャン宅の邂逅、タイレルとの対面など。)しかもそれを主人公を含めた登場人物の誰をも一種突き放した演出で語っている。翻るに本作では、開巻間近からあまりに主人公たちに寄り添いすぎているという印象を受けました。オリジナルは果てしなく続く殺伐としたやり取りの末に、最後に生まれるささやかな交情がそのコントラスト故に心を打つのだと思います。(例えば「最高の天使」を自認する執行者ラヴも、記憶が移植できる世界であるならばいくらでも代替可能なはずで、それ故の悲哀も描こうと思えば描けたと思うのですが、「最強の敵」以上のものではありませんでした。)  

 そしてもう一つがディストピアの仮想体験という点。あんないつになったら止むのかわからない暗い酸性雨降りしきる閉塞的な街で暮らすのは絶対に御免だけど、映画を観ている間だけちょっと覗いてみたい、という感覚。しかし本作では(前作とのメリハリを付けるためのあえての判断だと思いますが)冒頭含むいくつかのシーンで開放的なロケーションを選択しているため、前作ほどの絶望感はありませんでした。特にラヴが衛星カメラからの視点で、遠隔ミサイルを撃ち込む(しかも部屋でネイルの手入れをしながら!)というのはSFアクションの一場面としては面白い展開なのだけど、ブレードランナーの世界観に置いてみると「面白すぎるし空間の抜けが良すぎる」ため据わりが悪い。そのような好みからすると、2049の見どころはフォークト=カンプフテストみたいなブレードランナーとしての適合診断の部屋と、いうことになるでしょうか。

 まるでアメリカン・ニューシネマか、というような結末からすると、そもそも続編に自分が求めていた指向が的外れだったんだなとよくわかりましたし、独立したSF作品として観れば色々な映像的試みもあって面白かったのですが※、 これだけ時間が経つとどうしても「ブレードランナー」かくあるべしという作品像が自分の中で凝り固まってしまうので、ないものねだりと知りながらやはり一抹の物足りなさを感じずにはいられませんでした。

☆☆☆1/2

※『her』をバージョンアップするようなラブシーンも面白かったですね。

マグニフィセント・セブン(アントワーン・フークア)

 まずよかったのは、監督が「もし俺に西部劇のオファーがあったら、こんなことをやりたいな…」と思っていたであろうことが、その気持ちが、全部画面に炸裂していたところ。今に続く西部劇の歴史が培ってきた様式美、ケレンが余すところなくサンプリングされていて美しい。屋内で鳴り響く銃声、ドアから出てきたのは悪役、まさか…と次の瞬間崩れ落ちたり、戦闘の冒頭で撃たれたガンマンが、全てが終わった後で、ゆっくり倒れ伏したり。お約束の最終兵器、ガトリングガンもでてくるよ!

 端的に言えば全体がステロタイプなんだけど、物語も人物も「大体皆さんが想像されているとおりです」と大胆に割り切って、バックグラウンドなどをバッサリ刈り込んだ語り口がむしろ清々しかった。むしろその効能として、観客の想像する余地が生まれてよかったのではないか。例えばヒロインのエマと同道するテディは、幼馴染の彼女のことが結婚する前からずっと好きだったんだけど、殺された夫の復讐に飛び出したのを見ていられなくて勇気を振り絞って付いてきたんだな…とかね。

 一応『七人の侍』も原典としている建前だけど、あまりその要素はなかった印象。まあリップサービスでしょう。人物造形にしても、主人公たちは「人殺しの技術」という物騒な能力だけが突出して高い人間であり、南北戦争では偶々脚光を浴びることになったのだけど、本来「平時には持て余されてしまう人間」であって。(ヴァスケスがお尋ね者だったり、南北を敵として戦った者同士がチームを組むという展開がその辺りを強調しているような気がします。)皆、脛に傷を持つ男たちで、一見そうではなさそうな主人公サムですら「7つの州の委任執行官」という名乗りをことあるごとに繰り返す内に、眉唾な感じになってくるのが面白い。そんな彼らが死に場所を求めて集うという物語。

 個人的な一番のお気に入りのシーンは、主人公たちがローズ・クリークに初めて乗り込む時、町を支配するボーグ傘下のガンマンを片づけるくだり。5人くらいやっつけるのかと思いきや、あれよあれよといううちにワラワラ増えてきて、都合30人強を仕留める。それぞれがガンアクションの見事なショーケースになっているんだけど、仲間同士の連携や流麗な繋ぎ方が素晴らしく、ヴァスケスが「俺はこの瞬間をずっと待っていたんだ!」とばかりに叫ぶのが観客のテンションとシンクロして、西部劇として見ても屈指の名場面になっていたと思います。正直、クライマックスの籠城戦よりも興奮しました。

 ・デンゼル・ワシントンの銃捌きの見事なこと。ライフルを収めるだけなのに、所作に色気がある。それだけ見てても元が取れたなあ。

・メキシコ人賞金首ヴァスケスを演じるマヌエル・ガルシア=ルルフォは全然知らない人だったのだけど、愛嬌も雰囲気もあってよかった。これから注目されるのではなかろうか。

・男だらけでむさ苦しい中、華やか方面を一手に引き受けるのがヒロインを演じるヘイリー・ベネットなんだけど、ちょっと引き受け過ぎというか、露出過剰というか。「夫の敵を討つ!って着替えてきたかと思ったら、やっぱり襟元をピラピラさせて。上のボタン留めなさいよ!」と一緒に観ていた妻が義憤に駆られていた。義憤?

 最後あたり、みなさんご存知の通り、仲間が・・・という展開になるんだけど、ずっと泣いていました。最近涙もろくなったなあ。でも、それだけよくできているという証左でもあると思います。

☆☆☆☆1/2

クライム・ヒート(ミヒャエル・R・ロスカム)

 ビデオスルーという状況と邦題からすると、一番有名な出演者がスコット・アドキンスのB級アクション、みたいだけど全然違います(いや、そういうのも好きなんだけど)。観終わった後あまりに面白くて、つい久しぶりに感想を書きたくなった次第。
 デニス・ルヘインのクライムストーリー、と書くと大体想像できると思うし、概ねその想像は外れていないのですが、情緒に訴えかけようとするあまりの小賢しさが鼻につく、みたいな感じがこれまでの彼の映画化作品の弱点とすると、それが見事に克服されている。自身の脚本作なので、そこに意識的だったのかもしれませんが、監督の功績が大きいような気がしました。
 とにかく犯罪と地続きの日常を描写していく演出のリズムが素晴らしい。特に大きなことが起こる訳ではないのだけど、我々が思う平穏な生活とは違うルールで律されている世界がここに確かにある、と思わされる※。また、語り口の点で巧みだなと感じたのは、主人公の青年の犬を介したヒロインとのふれあい、身の程を過ぎた捲土重来を期する初老の男マーヴ、裏社会の資金ルート、何かを嗅ぎ付けていると思しき刑事、正体不明のならず者といった複数の物語が輻輳して、話の落ち着きどころがなかなか見通せないところ。それでいて観客に情報を提示するタイミングは的確なため、ぐいぐい惹きこまれる。
 充実した役者陣も大きな要素で、トム・ハーディの「過去の経験から大きな喪失感を抱えていても、絶対に譲れない芯がある」主人公像が魅力的だし、悲哀を感じさせる「足掻く男」J・ガンドルフィーニも見事。精神面に問題を抱えているヒロイン、ナディア(ノオミ・ラパス)もあえての安っぽさがいい。けれども一番上手いと思ったのは、『君と歩く世界』での好演の記憶も新しいマティアス・スーナールツ演じるエリックの薄気味悪さ。主人公ボブの平穏な日常を脅かす闖入者として要所に登場する(過去の不穏な「武勇伝」も含めて)のだけど、この映画がさらに素晴らしいのは、そんなプレッシャーをかける側であるはずのエリックが、場末のカフェで不意にボブから声をかけられた時、一瞬なんだけど気おされて見えるところ。そういう些細な違和感が後から効いてくるんですね。
 好みからいうとエンディングがやや甘すぎるけど、それは求め過ぎというもの。拾い物という言葉では全く足りない傑作だと思います。
☆☆☆☆1/2
 ※凋落していく自身を客観視できなくて、深みにはまっていくという展開もそうですが、演出のトーンも含めて『エディ・コイルの友人たち』を参照している印象がありました。その一方で『ロッキー』みたいな匂いもあってね。そういう種々を踏まえた上での「結末」だからな・・・巧いな本当に!

シン・ゴジラ(庵野秀明)

 ファンの人が鼻息荒く「日本映画史に残る!」とまでいうほどの手放しの絶賛ではなかったのだけど、単純に面白かった、とも言い難いような、一種名状しがたい映画ならではの感興を催すという意味で、やはり傑作だと思いました。
 物語全体のバランスもいいとは言い難いし、ごつごつした異形の作品だな、という印象。特に「あいつ」が初めて画面に姿を現したときは、ソフビ人形のようなキッチュな造形であるにも関わらず、不思議と妙なリアルさを備えていて、鑑賞後もモヤモヤと心に残ります。(個人的には世評の高さの3割ほどは「あいつ」に負うところが大きいと思う。あの造形をディレクションできるという点だけでも監督の才能は証明されている、ような気がする。)
 ちょっと前のギャレス・エドワーズ版は、トレーラーの時点では「災厄としてのゴジラに、例えそれが絶望的であっても挑まないわけにはいかない人類の悲壮な戦い」を描いてる風で、これは期待できるな!と思って実際観たらガメラだった、という顛末だった訳ですが、あのトレーラーの気分に忠実だったのはむしろ今作だった、という嬉しさがありました。しかし世間一般の感想はどうなのかよく分からないのだけど、ディザスター映画のカタルシスはあまり感じられなくて※1、大破壊がひっきりなしに、というのではない、地味だが確実に関東の人が困る状況が粛々と進行するという、現実味を帯びた展開であるために、観終わったあとも一抹のどんよりとした気分が残る印象でした。
 意図通りとはいえ、あまりに着ぐるみ然としたゴジラの造形はいかがなものか(せっかくのCG化なのに)とか、役者陣の悪い意味でいかにも特撮映画的な拙い感情演出※2、などの不満点はあったのですが、一方、素晴らしいと思ったのは「お金のかけどころをよく理解している」点。作りが荒くても観客が心の目で補完してくれる、という部分はざっくりと、逆に都市破壊のミニチュアワークや戦闘するCGの作り込みなど、ここで手を抜いたら映画全体が安っぽくなってしまう、というところは心血を注いでやってるのがこちらに伝わってくる、そういうメリハリの効いた配分でした。
 戒厳令下の東京ということで『パトレイバー2』が引き合いに出されるのもむべなるかな、と思うけど、ifを弄ぶような姿勢が鼻についたあちらよりも、こちらの方が面白く観られた気がします。むしろ傑作「怪獣」映画だった『パトレイバー3』にもっと言及があってもいいのにな。
☆☆☆☆1/2
※1 結末にすっきりしないものを見せて終わるから、という意味ではありません。
※2 カヨコ・アン・パタースンは、あんな80年代のラジオDJみたいな感じじゃなくて、逆張りで「日本語」がめちゃめちゃ流暢という設定だったら、なるほどわざわざ日本に送り込まれるだけのことはあるな、ってなったのにな。

:『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(J・J・エイブラムス)

 ファンメイドとしてはすごくよくできてる、みたいな作品。調整能力に秀でたエイブラムスらしい仕上がりだった。(わざと)のったりのったりしたストーリーテリングとか、オールドファッションなプロダクションとか。
 その一方で、全般的に各方面に配慮しすぎな感じが窮屈な印象もあって※。こういう作り方もあったか!っていうのびのびした映画が本当は観たかったんだけど。
 つまるところ、エピソード4(つづく5,6も)というのは、あの時代に才能の捌け口を求めて天才たちが集結し、青春や思いのたけを全力でぶつけた、成り立ちからして奇跡的な作品であって、再来を期待するのがそもそもの間違いなのかもしれない、と思いました。あるいは物語もさることながら、(画面には出てこない)作り手たちの切実さにこそ心を動かされていたのかも。
☆☆☆1/2 
ハン・ソロとかレイアは隠し味でよかったのに、ちょっと前面に出過ぎというか、接待しすぎだったような…